「固有性の棄却」
いろいろ来てますが、まぁ、一つずつやってくしかないですね。
今更こんなことを書かれるのであれば、一度、発端の記事に戻って検討して見せるしかないですね。>http://d.hatena.ne.jp/F1977/20090331/1238475336
(A)昔から、「民族意識をもて!」とか「民族の誇りを持って生きろ!」と言われることがとても嫌いでした。わたしは、「民族」である前に、ひとりの個人であるし、もし、何か誇りを持って生きることが「立派」で「正しい」ことなのだとしたら、それは「民族」としてではなく、ただの「個人」として誇りを持って「正しい」生き方をしたい、そう思っていました。だから、「民族」「民族」と、わたしに「民族」を押し付けてくる、一部の同胞の社会や人たちを敬遠していました。今でも、その思いはあまり変わりません。
(B)ただ、そういう人がなぜ「民族」「民族」と言ってくるのか、それは、単なる「民族主義」とか「祖国愛」とか、そういうものだけではないことも、分かっていました。朝鮮の歴史や、「在日」であることで、日本社会から受ける差別や抑圧、その苦しみや悲しみ、悔しさや憤り、そういったものは、「在日」を見ていれば、「在日」であれば、誰でもわかることです。誰だって「個人」として生きたい、けれど、日本社会の中では「個人」で生きようと思っても「在日」であるという属性で差別され、権利や尊厳を奪われている。(*)だからこそ、「在日」という集団性や「民族」性を掲げて、日本社会の不当性に立ち向かわなくてはいけない、「民族」としての誇りをもって生きなければいけない、そう言っているのだということ、それも、よく分かるのです。
(C)だから、わたしが「個人」的に生きて、「個人」的にふるまうことは、そうした、「在日」のかなしみや悔しさを、同じ「在日」としてよく知りながら、踏みにじってしまっている、そのことを、わたしはとても心苦しく思うのです。
(A)と(C)の葛藤が示され、間に(B)のロジックが示されています。前者の葛藤はわかる話です。僕だってもちろんあります。その上で、(B)。具体的には(*)で示したところの「だからこそ」以下です。「だからこそ、「在日」という集団性や「民族」性を掲げて、日本社会の不当性に立ち向かわなくてはいけない、「民族」としての誇りをもって生きなければいけない、そう言っているのだということ、それも、よく分かるのです」。
「心情的にわかる」という話なら、僕もわかります。ただし、論理としては飛躍しているということは、どうしたって免れないでしょう。「日本社会の不当性に立ち向かわなくてはいけない」として、「「在日」という集団性や「民族」性を掲げて」という前提は問うことができます。実際には、この前提が使われた、ということは知っています。だから、その前提は不可欠か、と問うています。何度も述べたように、僕の答えは「不可欠ではありません」かつ「有害である」というものです。
整理しましょう。
- 「在日」という集団性や「民族」性を掲げて&「民族」としての誇りをもって生きなければいけない
- 日本社会の不当性に立ち向かわなくてはいけない
- 「民族意識をもて!」とか「民族の誇りを持って生きろ!」と言われることがとても嫌いでした
民族主義を捨てるならば、1を否定することにはなっても、2と3を肯定することができます。そしてそれで十分でしょう、と。逆に、民族主義を捨てないならば、3を捨てることになるでしょう。民族主義による抑圧が一つできあがり、というわけです。違うというなら、具体的な検討をお願いします。
で、ここで示した1に、「言葉と感情のみによって結びつけられた普遍的な共同体を想像する一歩手前のところまできている」ような何かがあるんでしょうか?
誤解のないように強調しておきますが、この1のところに引用した「文言だけ」を別の文脈に移し替えれば、いくらでも「ある」ように説明してみせることはできます。そうではなく、F1977さんに3を言わしめるような1に、「言葉と感情のみによって結びつけられた普遍的な共同体を想像する一歩手前のところまできている」ような何かがあるんでしょうか?僕はないと思いますけど。
そして、僕の定義「自らのアイデンティティの基盤として文化や言葉や歴史に依拠することそれ自体ではなく、ある文化や言葉や歴史に依拠することを「そうあるべきこと」として提示しようとする発想」は、上記した「3を言わしめるところの1」に向けたものです。それに対して批判しているのですから、1を言う前に「定義の拡大解釈」を重ねていく民族主義を引き合いに出しても、弁護になっていません。関係ない話です。
それと、そのアラブ主義を狭小な民族主義から引っ張り出しているものは何か、よく考えてみてください。あるアラブ人の定義があり、どうもそれには当てはまらない誰かがやってきて、その人を仲間として扱うべきかどうかが問われる場面に直面する。そのときに、その相手を仲間に含むような定義に書き換える。そういうことをやっているわけですよね?それがつまり、「私がある」(あなたがある)に依拠する、ということの意味です。
t_keiさんの批判は、僕が言っていることを、「民族主義」という言葉の定義を変えて、別様に言い直しているだけです。まぁ、そういう言い直しはかまわないんですけれどね。そこに書かれている「民族主義」に、僕は反対しません。ただし、最初に具体的な批判対象としてあった、3を言わしめるところの1としての民族主義を批判している僕に対する批判にはなりません。