雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

大衆としてのネットイナゴ

竹田陽子先生の絶賛していた『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造 (叢書「世界認識の最前線」)』を探して紀伊国屋をウロウロしていたら,リップマンの本がいまさら翻訳されているのをみつけて手に取った.彼の『輿論*1は予備校時代に読んで感銘を受けたとはいえ,かれこれ80年近く前の論考だし,それほど期待してはいなかったのだが,読んで身震いした.80年前に書かれた政治評論が今なお新鮮に読めるって,すごいことだよね.というか『輿論』も『幻の公衆』も,彼の30代前半の仕事だったということに焦りを感じたりするのだが.

幻の公衆

幻の公衆

リップマンが本書で書いていることは要するに大衆の総意などどこにもなく,彼らは外野から不満をぶちまけることしかできず,それとて持続しない気まぐれなものであって,選挙とは政治参加ではなく制度化された革命に過ぎないのだということだ.*2
判断に必要な知恵も情報も大衆が持ち合わせていない以上,大衆に政策判断などできないし求めるべきでもない.民主主義のための戦争はあっても,民主的に戦争を遂行することなどできないという彼の現実主義には頷かされる.それは別に選民思想ではなく,誰もが限られた分野の関係者であると当時に多くの物事に対して部外者である以上は,部外者が寄って集って合意形成したところで素晴らしい結果が得られるとは考え難いということだ.
いわゆるネットイナゴ問題について,まあ無視すればいいじゃんという気もするのだが,彼らの[これはひどい]とか一行コメントをみて感じることは,それはそれでリップマンがいうような,表現に対する制度化された革命権の行使であるかも知れないということだ.ひとつひとつ品のないコメントを追っかけると気が滅入るけれども,そうやってネットイナゴが集ること自体が,コンテンツの属性として或る種の意味を持つことになるだろう.
それは必ずしも悪い意味ではなく,そりゃあ[これはひどい]タグばかり並ぶようなコンテンツも中にはあるのかも知れないが,ポジティブなコメントも同じようにつくエントリというのは,色々な意味で関心を引く,時宜を得た,強度を持った言説ということではないか.
総表現社会」的なコンテクスト,主権在民としての民主主義を信じるから大衆に幻滅するのであって,そもそも大衆とはそういうものだ,というリップマンの諦観を僕は好きだ.そして,趣向を凝らしたエントリを書いてトラバを飛ばし,コメント欄で口泡を飛ばすようなプラトン的コミュニティよりも,とりあえず[これはひどい]とタグをクリックするだけで参加できる方が,うまく集合知を組織化できている気がする.*3このブログにもそういう傾向があるけれども,建設的対話を強いることは往々にして沈黙の螺旋を招くのではないか.
イナゴをイナゴとして突き放し,彼らは群れるだけで一貫した主義主張などなく,ネタを消費したいだけなのだとみることができれば,彼らに群がられることもまた箔として受け止められないだろうか.僕の連載も読者アンケートでは往々にしてベスト3とワースト3の両方に顔を出すらしいが,それはそれで読まれていることですねと編集長は理解してくれている.かなり面の皮が厚くなければ政治家など志せないように,ブロガーもまた人気に応じた面の皮の厚さを求められるようになるのだろうか.それはそれで微妙だが,ブロガーたるもの離脱の自由はあるし,活動の範囲を選ぶこともできるのだから,それほど深刻なことにはならない気がする.
肝心なのはイナゴと関係者とをゾーニングできるアーキテクチャであり,はてなブックマークはそれをある程度は実現している.スラドのようにメタモデレートを入れるとか,小手先の技術的改善も考えられるけれども,それはそれで「はてな」的言論空間での,自生的秩序の形成を阻害することになるかも知れない.

*1:世論〈上〉 (岩波文庫)』『世論 (下) (岩波文庫)岩波文庫版は"Public Opinion"を『世論』と訳したが,『幻の公衆』では"Public Opinion"を「輿論」,"Public Sentiment"を「世論」と訳している

*2:ちなみに官僚が法案をつくり法律を解釈する日本の場合,選挙による政権交代では政策立案者を入れ替えることができないから,リップマン的な文脈でいう「民主主義=制度化された革命権」が実質的に機能していない疑義があるが,ここでは深く論じない

*3:コメントの内容にも鋭い知見が散見されるが,ネットイナゴ的なコメントさえ,中身ではなく件数そのものがメタデータとして意味を持ち得るのだから