一次資料から

午後から、東大国語国文学会の公開シンポジウム「一次資料から考える」を聴きました。コロナ以来オンラインでしたが今年は対面のみ。構内はむせ返るような若葉の匂いです。

講師は堀川貴司(日本漢文学)、光延真哉(歌舞伎)、石山裕慈(国語学)、司会は近代文学の河野龍也、出席者は100人弱、大半が30~40代でもう知らない顔ばかり。河野さんは、佐藤春夫が戦時中に書いた原稿には北京に日本人が侵攻したことそのものが戦禍だとあったが、掲載誌が見つかってみるとその箇所はなかったという話をしました。

堀川さんは話し方も内容も分かりやすく、シンポ向き。五山文学資料を例に、一次資料でないとわからないこと、近年の研究動向、二次資料の拡大、普及を挙げて、それぞれの問題点を述べました。光延さんのパワポはよく出来ていて見栄えがしました。歌舞伎台帳(いまで言う台本)は、書き換えられるものなので、一次資料で見ると舞台上の創作過程が分かる、また学者の蔵書が散佚してもマイクロ撮影されてあったもので見ることができた例を挙げてDXの効用を説き、一次資料を見た経験があるからこそ二次資料を見ても脳内で復元ができるのだと述べました。

石山さんは「日本漢字音史研究と字音仮名遣い」というテーマで、漢字音を定め、歴史的仮名遣いで表記する(漢和辞典など)場合に一次資料をどう使うかという議論を紹介し、今後の方向を述べました。中世の本文に振仮名をつける時いつも疑問に思っていたことが、国語学者の間でも議論されているんだと知って、嬉しい気がしました。

詳細は後日「国語と国文学」に載るでしょう。聴きに来てよかった、と思いましたし、実例として話したい体験も沢山ありました。総じて、一次資料の存在感と、DX化やDBの充実という技術的成果との新たな関係を確認したシンポでした。