萌え絵が批判されるのは歴史がないからじゃない

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「萌え絵」は歴史を積み重ねれば許されるか

挙げられている例はやや不十分に思える。「萌え絵」が非難されるのは誇張表現だからだ。慣れない人からすると、その誇張が強烈に感じられる。その鮮烈さを快く思うこともあれば、不快に感じることもある。見慣れれば、強烈であったはずの表現にも慣れてくる。「表現」とは、毒や薬と似たようなもので、過剰に摂取すれば毒にもなるし、恒常的に使用すれば体が慣れてしまう。

裸婦像が認められるようになったのは、確かに「歴史」を積み上げたからである。
裸は神として、つまり「理想像」として描かれてきた。「理想像」として描かれない裸は批判されてきたが、徐々にありのままの裸も「芸術」として認められるようになっていった。多様な価値観の「発見」により、誰かにとっての「理想」は、他の誰かにとって「理想」ではなくなった。ともすれば誰かにとっての「理想」は、他の誰かにとっては「欲望」にしか映らない。その時、誰かの「理想」は批判に晒されるようになる。

「萌え絵」も「理想」のひとつであろう。「萌え絵」が批判されるのは、誇張表現だからだし、誰かにとっては「理想」ではなく「欲望」にしか見えないからだ。現在「芸術」として残っている「裸婦像」は多くの批判に耐えて残ってきたものである。果たして「萌え絵」はそれに耐えられるだけのバックグラウンドを形成できるだろうか。この点を無視して時間や歴史が解決すると結論付けるのは、いささか楽観的すぎるだろう。

「碧志摩メグ」や「のうりん」などの例を挙げずとも、昨今「萌え絵」が公共に相応しいか否かがしばし議論される。以前に比べると「萌え絵」が一般的になったとはいえ、広く受入れられるほどにはなっていないのが現状だろう。議論によって、その時その時の妥協点を見出していけば良いだろう。それが、批判に晒され「歴史」を積み上げていくこととなる。「碧志摩メグ」や「のうりん」に関しては、それぞれ個人的に思うところはあるがここでは述べない。

「駅乃みちか」に関しては、顔の紅潮がやや気になる。私自身は、恥ずかしがっているように見えるが、もだえているように捉えられても仕方が無いと思う。服の造形に関しても批判があるため、表情だけで解決する問題にも思えない。しかしながら、現在の所、鉄道むすめのページで公開されているだけで、東京メトロの駅などに貼り出されているわけでもない。今後イベントなどで用いられる可能性はあるが、現在はその段階にはない。
鉄道むすめ版「駅乃みちか」をイベントに用いるのが相応しいか否かという議論はあって然るべきだが、現在の論調はあたかも駅などで利用されているかのようで違和感を覚える。

「萌え絵」が歴史を積み重ねれば一般に認められるのかを、裸婦表現の歴史をもとに考察していきたい。

ルネサンスと裸

裸婦像の歴史を追い始めると、とんでもないことになるが、大雑把に時代を分ければ、古代、中世、ルネサンス、近代と現代を見ていけば良いだろうか。

古代ギリシアでは、理想像が彫刻で表現されていたようだ。裸婦の彫像も見られるが、代表的なのは主にウェヌスつまり、ヴィーナス、もしくはアフロディーテの彫像である。代表的なのが「クニドスのアプロディーテー」で、裸の女神アプロディーテーが右手で陰部を隠した彫像である。この彫像は人気があったのか、多くの複製品や派生作品が生まれている。

中世になってからはカトリックにおいて裸体がタブー視されていたが、古代ギリシア・ローマの復興を目指したルネサンス以降は裸婦も描かれるようになる。しかし、女性の裸体を描くには女神というモチーフが必要であった。主に、ウェヌスもしくはヴィーナス、しばし同一視されるアプロディーテーとして裸婦が描かれてきた。

サンドロ・ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」は言うまでも無く、「プリマヴェーラ」もヴィーナスなどの女神が描かれている。 「ヴィーナスの誕生」は古代ギリシャでしばし見られた「カピトリーノウェヌス」をモチーフにしていると考えられる。
プリマヴェーラ」は薄布で肌が見えるが裸婦ではない。また、「ヴィーナスの誕生」では生まれたままの姿のヴィーナスへ右の女神が服を着せようとしており、裸であることの理由付けがなされている。

古代古典ギリシャ ・ローマの彫刻における肉体美に魅せられたのがミケランジェロである。絵画も有名であるが、肉体美に富んでいる。ミケランジェロの最大の仕事は、システィナ礼拝堂の「最後の審判」であろう。

当時から賛否両論があり、後のパウルス4世であるカラファ枢機卿らは、裸体が不道徳であると抗議したが、パウルス3世は取り合わなかったという。 結局、パウルス4世が命じて布を描かせた。1993年の修繕の際に、加筆部分が取り除かれたが、完全には修復することはできなかった。宗教改革の影響でミケランジェロの裸体像は、しばし不道徳であると批判されてきた。たとえば、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の主祭壇にある「あがないの主イエス・キリスト」は1521年以来、ずっと下半身に布が巻かれたままである。

女神として描かれてきた裸婦像

永らく、裸婦は女神として理想像を描かれなければ非難の的となった。

ゴヤによる「裸のマハ」は西洋美術で初めて実在する女性の陰毛を描いた作品とされる。当時の厳格なカトリック国であるスペインの宗教観からすると破廉恥な絵であり、発注者は不明だが、ゴドイ首相が秘密裏にゴヤに依頼したと考えられている。ゴドイ首相が失脚したことで、この絵の存在が明るみになり、ゴヤは宗教裁判にかけられることに。証拠不十分で本人は釈放となったものの、絵はプラド美術館に固くしまわれ、100年後の1901年になってようやく公開された。

ドミニク・アングルの「グランド・オダリスク」も多くの批判を受けた作品である。ただし、「グランド・オダリスク」は解剖学的に背中が長すぎることも批判の理由であったけども。「背中」を誇張したと解釈すると、この点は「萌え絵」の構造と似ているだろうか。

マネも現実の女性の裸を描いたことで、注目と共に多くの批判を集めた画家である。1983年に、マネは「草上の昼食サロン」で発表したが、女神のように理想化されてない現実の女性の裸体を描いたことで「不道徳」との烙印を押され落選した。また、1865年には「オランビア」を発表した。サロンには入選したが「草上の昼食サロン」同様に現実の女性の裸体を描いたことへの批判は免れなかった。

「理想」と「現実」の逆転

マネは多くの批判を集めたものの、19世紀後半には、理想化されない女性のヌードも「芸術」として認められるようになっていった。

「写真」の出現によって絵画の写実的な役割は薄れ、また「写真」も「芸術」として認められるようになっていった。絵画は次第に抽象的になっていったし、「写真」によりありのままの美しさが認められるようになっていった。

この頃から、「理想」と「現実」の逆転が起こったように思われる。「理想」の崩壊とも言えるだろうか。
「理想」とは最高の状態であるが、それは皆にとって完全な状態でなければならない。つまり、皆のコンセンサス=同意、あるいは暗黙の了解の一致が必要である。独りよがりの「理想」はしばし、欲望の発露として捉えられるだろう。
「理想」の崩壊は、世界が多様化したというよりも、元々多用だった世界が見えるようになって、統一できなくなったことに起因するという認識がより正確かもしれない。かつては「理想」の統一を「宗教」がになっていたが、現在の状況を鑑みるにカトリックにしてもイスラムにしても、一元化は最早不可能であろう。

「理想像」の批判として、国連名誉大使に起用された「ワンダーウーマン」を挙げたい。

ワンダーウーマン(DCコミック)」の国連名誉大使への起用は、一連のポリティカル・コレクトネスに起因するものだろう。マーベル・コミックの「アベンジャーズ」では、国連との軋轢が描かれているが、現代におけるリアルさを描くために必要ではあるものの、正直世知辛いなと感じる。

ワンダーウーマン」はひとつの「理想像」として解釈できるだろう。それはつまり、誰かにとっては「欲望」としか映らない。それは、DCコミックの欲望だろうし、「ワンダーウーマン」を国連名誉大使に起用した人間の欲望だろう。2017年公開予定の「ワンダーウーマン」のプロモーションに見えて仕方が無い。

ワンダーウーマン」は設定としてアメリカ人ではないものの、アメリカを代表するスーパーヒロインに他ならない。何より映像化作品が少なすぎて、世界的にはマイナーな方だろう。個人的には、これらの点が国連名誉大使とするには不適切だと考える。

「ありのまま」が受入れられる世界における「理想像」への批判

ワンダーウーマン」への批判は、「理想像」、つまりだれかの欲望が透けて見えることへの批判でもある。一方で、現実であればここまで批判はされない。現実はどんなに理想を追い求めても「ありのままの姿」であるし、理想のために研鑽する個人は賞賛される。「理想像」はある意味チートじみていると捉えることとができるかもしれない。

一方で、実在の人物を批判するよりもキャラクターを批判した方がリスクが少ないことも一因だろう。実在の人物は批判に対して反応できるが、キャラクターには不可能だ。キャラクターに作者などの思いを仮託することしかできない。また、実在の人物は欠点があるのが当たり前だし、それはやはり「ありのままの姿」でもある。もちろん、国連名誉大使ともなれば、それ相応の小綺麗な経歴が必要だろうが。

「萌え絵」も「理想」のひとつである。「ワンダーウーマン」と同様に批判される。「萌え絵」と「公共」に関しては、広く議論されるべきであろう。ただし、罵倒が目につく状況で、話合いがなされているかは疑問である。

サイゼリアに「ヴィーナスの誕生」、「プリマヴェーラ」、「最後の審判」は理想像ではあるが、現代でもその理想像は「芸術」であると認識されている。ボッティチェッリの裸婦は現代の感覚からすると、それほど肉感的に見えないだろう点も留意すべきだろうか。 また、「芸術」と認められるには、多くの賞賛と同様に、多くの批判にも耐える必要がある。耐えられるだけの特性と理論が必要だ。「駅乃みちか」や「萌え絵」には批判に耐えられるだけの価値があるだろうか。私は、そうあって欲しいと願う。