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Tuesday, September 30, 2014

福島原発事故に伴う指定廃棄物の最終処分地選定をめぐる政策過程


本日(2014年9月29日),法政大学政治学専攻月例研究会にて標記の報告を行いました.目下係争中の政策課題でありますので,一般の便宜に供するため,報告に用いたレジュメを公開するとともに,註等を省略した内容を以下に掲載します.

指定廃棄物についての公式情報は,環境省の「放射性物質汚染廃棄物処理情報サイト」にて発信されています.現状とこれまでの経緯については,同省「放射性物質汚染廃棄物に関する安全対策検討会」第1回(2014年4月28日)の資料4「放射性物質汚染廃棄物の発生経緯と現状について」が比較的まとまっているかと思います.

私がこの問題に関心を持ち始めたのは本年5月からと遅く,また急ごしらえのレジュメでもあることから,誤りを多々含んでいるものと危惧します(主としてインターネット上にて入手可能な情報源に依拠し,聞き取り調査などは行っておりませんし,新聞報道も網羅的には参照しておりません).ご叱正・ご批判を歓迎いたします.


1. 指定廃棄物とは何か

  • 2011年3月の福島第一原子力発電所事故に伴い発生した、一定量の放射性物質(1kg当たりの放射性セシウムの濃度が8000ベクレル超)を含む汚泥、汚染稲わら、浄水発生土、焼却灰など。1都11県に、合計14万トン以上が一時保管されている。
  • 福島県を除き、相対的に量の多い宮城・茨城・栃木・群馬・千葉の5県については、11年8月公布の「放射性物質汚染対処特措法」と、同年11月11日に閣議決定された国の「基本方針」に基づき、県内処理のための最終処分場を建設することが予定されている。残りの7都県については処分方針が決まっていない。
  • 処分にあたっては、稲わらなど可燃性廃棄物は仮設焼却炉で焼いて、容量を削減する。焼却灰や不燃性廃棄物を地下に埋め立て、コンクリートで蓋をする。数十年後に放射性濃度が一定程度減衰した段階で、作業用空間も埋設。
  • 現状は、ごみ焼却施設や浄水施設、下水処理施設、農家の土地などに仮置きされており、保管の長期化と分散管理を問題視する環境省は、各県内の最終処分場建設を急ぎたい考え。福島県内への集約は「福島県にこれ以上の負担をさらに強いることは到底理解が得られない」として、これを否定。
  • 環境省は最終処分場立地を円滑に進めるため、1県当たり10億円、5県に合計で50億円の「地域振興費」を交付する方針。


2. 各県の状況

 2. 1. 宮城県 
  • 一時保管されている指定廃棄物は約3,300トン(稲わらなど農林業系副産物が約2,240トン、浄水発生土が約1,010トン)。稲わらが多く、全体の3分の2が登米市にある。個人の農地を借り、ビニールハウスに遮光性のカーテンをかぶせた状態で保管。14年3月で当初約束した保管期限は切れたが、最終処分場は決まらず。ほかに、白石市の浄水場では550トンの汚泥を保管。
  • 環境省と県、市町村長による「市町村長会議」を12年10月から開催し、13年11月の第4回までに、処分場を県内に1箇所つくる方針と、候補地の選定手法について合意。
  • 処分場立地のために必要な土地の広さ(2.5ha)のほか、次の3つの観点から国有地・県有地の適正評価を行い、候補地が絞り込まれた。
    • ①自然災害の恐れのある地域、自然環境を保全すべき地域、史跡・名勝・天然記念物等の保護地域を避ける。
    • ②年間50万人以上が訪れる観光地の周辺は避ける。
    • ③生活空間との距離、水源からの距離、自然植生の少なさを考慮。
  • 第5回の市町村長会議(14年1月20日)で、最も適性が高いとして、栗原市の深山嶽、加美町の田代岳、大和町の下原の3つの国有林を候補地に選定。
  • 環境省は詳細調査を経て15年3月までには決定し、搬入もしたいとしているが、3首長および住民は反対を表明し、環境省の選定基準に則り、不適地であると主張。
    • 栗原市:選定に使用されたデータは古い。08年の岩手・宮城内陸地震の際、周囲で国内最大級の地滑りが起きた。近くにある栗駒山は火山。周辺には鬼首、鳴子温泉など観光地もある。
    • 加美町:町による現地調査の結果、地質、面積や斜度などが条件を満たしていない。周辺に砂防施設がある。リゾート施設に近接している。原発事故以来、地元米が風評被害を被ってきた。
    • 大和町:自衛隊の王城寺原演習場が近く、誤射の危険性がある。候補地周辺の川が隣の色麻町の水源となっている。周辺には県のレッドリストに載っているオオバヤナギが群生。演習場や産廃最終処分場など、これまで様々な迷惑施設を引き受けてきた。
  • 県は、14年5月から7月にかけ、国と3市町を交えた5者協議を4回開催し、詳細調査の受け入れを促したが、合意には至らず。石原環境大臣(当時)が出席した7月25日の第6回市町村長会議を経て、8月4日の第7回市町村長会議で調査受け入れを決定。
  • 村井知事の受け入れ表明を受けて、環境省は調査着手を各市町に申し入れ。降雪のある11月半ばまでに調査を終えたいとする。栗原市長と大和町長は3市町の足並みが揃うことを条件に調査を容認も、加美町長は受け入れを拒否。同町議会は9月19日、処分場建設阻止を目指して「自然環境を放射能による汚染から守る条例」を全会一致で可決した。
  • 反対住民には、「原因者負担」「発生者責任」の原則に基づき、指定廃棄物は福島原発に戻して、東京電力に責任を負わせるべきだとの主張が根強く、県内処理の妥当性を否定している 。背景には、福島県だけでなく自分たちも原発事故で迷惑を被った被害者であり、これ以上の負担は受け入れがたいとする住民感情がある。村井知事は、震災がれきの広域処理で他県にお世話になったのだから、指定廃棄物は自県内で処理すべきだという立場。

 2. 2. 栃木県
  • 県内の指定廃棄物の量は約1万500トンで、福島県に次いで多い。現在は、農家や事業所など県内約170ヶ所に分散して仮置きしている。
  • 環境省は12年9月、福島県に近い矢板市塩田の国有林を候補地に選定したが、国の一方的な決定に対する地元の猛反発にあい、撤回を余儀なくされた。その後、宮城県と同様の方式による合意形成に方針を転換。13年4月から「県指定廃棄物処理促進市町村長会議」を開催し、12月までに県内1箇所の建設と候補地の選定方法が合意された。
  • 14年7月、環境省は塩谷町上寺島(寺島入)の国有林を候補地に選定。候補地から直線距離4kmにある尚仁沢湧水は一帯の水源となっており、1985年に環境庁の「名水百選」に選ばれたこともあることから、住民は反発。
  • 8月5日、塩谷町議会は候補地の白紙撤回を求める国への意見書を全会一致で可決。9月19日には同じく全会一致で「町高原山・尚仁沢湧水保全条例」を可決。同条例により、候補地を含む保全地域での事業には町の許可が必要とされた。
  • 9月22日、「塩谷町民指定廃棄物処分場反対同盟会」は、県内処理を定めた「基本方針」の見直しを国に働きかけるよう求める要望書を、福田知事に提出。
  • 福田知事は、処分場立地に伴う風評被害への対応を求め、尚仁沢湧水を核に同町を全国にPRする「名水プロジェクト」を例示。石原環境大臣(当時)は理解を示し、対策費50億円のほかにも、地域振興に協力する姿勢を示した。
  • 県は14年8月から独自に設置した県指定廃棄物処分等有識者会議を開催。候補地での地下水に関する調査計画や、詳細調査の評価基準の項目などについて、環境省の選定を検証し、独自の意見を取りまとめる方針。
  • 反対する主張や住民感情などは宮城と共通であり 、市町村長会議でも当初は福島第一原発への搬入を求める声が強かった。塩谷町長はインタビューで、「原発周辺に住民が帰れない土地が出てくるとしたら、そういう場所に集約して処理すること」を、「本気で考えてもいいのではないか」と述べている。矢板市長は仮置き場で保管を続ける案を主張したが、福田知事はこれを否定。

 2. 3. 千葉県
  • 約3,700トンが一時保管されており、特に指定廃棄物が多かった松戸市・柏市・流山市は、集約した保管場所への搬出を県に要望。県は14年度末を期限とする協定を結び、我孫子市・印西市の手賀沼下水処理場へ526トンを搬入し、12年末から保管している。
  • 宮城、栃木と同様、13年4月から市町村長会議を開き、14年4月までに県内に最終処分場1箇所を建設することが了承され、初めて民有地も候補とすることになったが、未だに候補地は提示されていない。
  • 保管期限が迫るなか、県は、14年度末までに最終処分場への搬出ができない場合、発生元の自治体が手賀沼から指定廃棄物を持ち帰り、新たな一時保管を行う準備を進めるように要請。手賀沼への搬入の際に反対運動が起こり、搬入が13年6月で停止した経緯もあるため、期限延長はしない方針。
  • 手賀沼での反対運動にかかわった住民はその後、地元から指定廃棄物が撤去されればよいという問題ではないと語り、県民一般の当事者意識の欠如を指摘している。「私たちは当事者になったわけです。ここから20kmも離れていれば関心は全然湧かなかったと思う、我々も」。

 2. 4. 茨城県
  • 県内の指定廃棄物は約3,500トン。14市町内のごみ焼却場や下水処理施設など15カ所で、遮水シートで覆うなどして仮置き。放射性物質濃度が他4県に比べ低く、焼却灰や下水汚泥が9割を占め、農業系の指定廃棄物がないのが特徴。
  • 12年9月に、最も福島県に近い県北の高萩市の国有地を、国が候補地として一方的に決定。地元の市長・住民らの反対にあって撤回を余儀なくされている。その後、13年4月から市町村長会議を3回開催してきたが、箇所数や選定方法に合意は得られていない。
  • 大量の稲わらを敷地内で保管する農家から早急な対応を迫られている宮城、栃木両県とは事情が異なり、結論を急ぐ雰囲気が高まっていない。

 2. 5. 群馬県
  • 県内では、7市村で約1,190トンを保管。前橋水質浄化センターは市内の下水から出た汚泥の焼却灰など約340トン、高崎市では2つの浄水場で浄水時にたまった土と下水汚泥を計280トン、それぞれ保管している。
  • 県は当初、県内に1箇所ではなく発生元の自治体ごとの最終処分を国に逆提案していたが、のちに国の方針に従うことを決めた。
  • 他県同様、13年4月と7月に市町村長会議を開いたが、結論は出ず、3回目の会議は未定。市長会と町村会でも議論が行われ、市長会では意見が集約されなかったが、町村会は13年10月に、県内処理の方針を見直すよう環境省に求めた。
  • 保管場所に民有地はなく、腐りやすい稲わらなどもない。費用もほとんどが環境省の委託費や東電への請求で賄われていることから、切迫感が生まれていない。

3. 問題の諸相

 3. 1. 当事者意識の欠如――解決の主体は誰か
  • 処理の必要性が明らかであるのに、誰も負担を引き受けようとしない、典型的なNIMBY(Not in my backyard)状況。
  • 宮城県では、処理の必要性・緊急性が可視的だった震災がれきと比べ、一部農地などで保管されている指定廃棄物は、県民一般の目に触れにくい。他県でも浄水場などに保管されていることが多く、地元が保管地・候補地にならない限り、関心を呼びにくい
  • 多くの住民には、自分たちは(も)原発事故の被害地域であるとの意識が強く、処分場の建設は正当な理由のない過重な負担(受益なき受苦)と感じられている
  • 自ら解決すべき問題であるとの当事者意識を持つことは困難となり、国の責任や発生者責任が強調される。
  • 他市町村の廃棄物を引き受けることにも抵抗がある。各県の市町村長会議では、県内1箇所という方針を問題視し、自治体ごとや数箇所での分散保管を主張する声が相当数あった。環境省は分散管理のリスクを強調するが、そもそも県単位での処分自体が行政区画以上の合理的理由を持たず、現に千葉県内では有望な候補地が見つからず苦慮している。地域間の公平と処分上の合理性、どちらの観点からしても、県内1箇所の方針には疑義が寄せられており、処分の妥当な単位には争いの余地がある
  • 震災がれきの広域処理をめぐっては、危険性が疑われる他県の廃棄物をなぜ受け入れなければならないのかが問題となった。指定廃棄物処分の場合、似た構造が同一県内で再現されているとも言える。ただしその際、他市町村の廃棄物の受け入れを求められる自治体も、既に一定の受苦を余儀なくされていることが多い。がれきの場合では、広域処理による負担の分配が(是非はあれど)地域間の公平(連帯)に適ったのに対し、指定廃棄物の県内1箇所への集約は累積的な受苦を生む可能性が高く、地域間公平の実現を困難にする。
  • まして、福島への集約は累積的な受苦を極大化させるものであり、地域間公平を甚だしく損なう。それだけでなく、当事者意識を持たないままでいることを助長し、高レベル放射性廃棄物(HLW)処理をめぐっても同様の対処が繰り返される土壌を育みかねない

 3. 2. 不信の構造――合意を阻むもの
  • 安全性や風評被害への危惧に加え、国への強い不信が、合意形成を困難にしている。
  • 第一に、県内処理の方針が策定された手続きや、候補地選定過程の不明朗さ(後述)。
  • 第二に、一旦候補地として詳細調査を受け入れると、不適地と判断されることは期待できず、引き返せなくなるのではないかという危惧。制度的には保障されている決定過程の可逆性を、住民が信頼できない状況。
  • 第三に、各県で合意形成が難航するなかで、他地域に先がけて引き受けると、他都県分の廃棄物も搬入されてしまうのではないかという潜在的危惧。
  • 第四に、一旦引き受けると、その周辺に別の危険施設・迷惑施設も次々と誘致されるのではないかという潜在的危惧。

 3. 3. 政策枠組みの硬直性――不信を強化する意思決定手続き
  • 県内処理の妥当性(福島県内への搬入の妥当性)をどう考えるかとは別に、政策決定手続きとしての妥当性が問題を含んでいる。
  • 環境省は一方的な候補地指定の失敗を踏まえ、県ごとの市町村長会議で県内1箇所の処分場立地と候補地選定基準に合意を取り付ける方式に転換したが、県内処理の方針は堅持し、文献調査のプロセスは依然として不透明。
  • 政策過程の「上流」で決定された県内処理という枠組み自体が「下流」の政策実施段階で摩擦を引き起こしているため、候補地選定や詳細調査などをいかに丁寧に進めても、反対側には形式的・表面的な対応にしか見えず、不信が強化されるばかりとなる
  • 指定廃棄物が地元にあること、来るかもしれないことで喚起される関心は、HLWを含む放射性廃棄物の処理問題を解決すべき主体としての当事者意識へと発展する可能性を持つものである。だが、現行の手続きでは、政策決定の時点で住民の意見反映の機会がなかったことを反対する根拠として与え、「福島に戻せばよい」という(合理的かもしれないが)安易な対処を主張して当事者意識を持たないままでいることを許している。

4. 解決の方向性

 4. 1. 多段階の社会的合意形成――HLW処理に関する学術会議報告から
  • 日本学術会議が14年9月に発表した報告「高レベル放射性廃棄物問題への社会的対処の前進のために」は、12年の報告で提唱した、HLWの「暫定保管」政策の具体化に向けた社会的合意形成を進めるための考え方を示したもの(日本学術会議 2014)。
  • 政策案の選択の幅として、何を「変えられないもの」と考え、何を「変えてもよいもの」と考えるべきかについて、政策論議の参加者が判断を共有する必要がある。
  • まず一般的・抽象的なレベルでの規範的原則(「変えられないもの」)に合意した上で、より個別的・具体的レベルでの判断(「変えてもよいもの」)についての合意を探っていくべき。以下の諸原則は広範な合意が可能。
    • 安全性を最優先すべきこと(安全性最優先の原則)
    • 国内のどこかに施設建設が必要なこと(自国内処理の原則)
    • 多層的なレベルごとに、地域間における受益と負担が公平であるべきこと(多層的な地域間の公平の原則)
    • 施設建設には、多層的なレベルごとの地域住民や自治体の同意が必要であること(社会的合意形成の原則)
  • 最も一般的な原則について、全国知事会、全国市長会、全国町村長会などの多層的な地域代表団体の合意が得られたら、施設の具体的立地点を選定する段階に進める。
  • 特定地域での立地点選定に先立っては、選定手続きや建設・管理に際する条件(建設の承認手続き、住民参加の方式、情報公開の仕組みなど)などの、より具体的な原則について、当該地域の自治体や市民団体代表などの合意が必要。

 4. 2. 意思決定手続きの改善策
  • 政策の実施過程ではなく、形成過程において複数の選択肢(集約処理、県内処理、分散処理など)と、その帰結(各選択肢における候補地での影響評価)を示す。
  • 候補地選定や影響評価のプロセスは透明化し、市民参加型手法(討論型世論調査、パブリック・コメントなど)による議論喚起と意見反映を経て、選択肢の絞り込みを行う。
  • どのような選択肢を選ぶにせよ、事後的に異なる地域や種類の廃棄物が搬入されたり、追加的に異なる種類の施設が立地されたりすることがないよう、予め政策内容を明確化・限定化し、各県知事や各地域代表団体との合意を形成する。
  • 実際に候補地の調査や処分地の決定を行なうにあたっては、候補自治体および地域住民の広範な合意を条件とする。
  • 合意が得られないのであれば、前の段階に手戻りすることを原則とし、意思決定過程の可逆性を保障する。

Saturday, July 20, 2013

選挙には行かなくてもよい


選挙が近づくと,みんな投票に行けとうるさくなります.しかし選挙権は権利です.行使することもしないこともできるのが権利です.だから投票には行ってもいかなくてもよいのです.

こういうことは昔,「投票自由論」という記事にまとめたことがあります.そこで書いたことは繰り返しません.

ここでは駒崎弘樹さんが昨年書かれた,「選挙に行かない男と、付き合ってはいけない5つの理由」という記事を採り上げます.あまりに暴論なので当時は論及を控えたのですが,政治学者のなかにもこのような暴論をもてはやす人がいるのを見るにつけ,批判しておく必要を感じました.主張は5点+まとめにわたっているので,それぞれに触れます(なお,当該記事へ寄せられたコメント等の反響はあまりチェックしていないので,重複があるかもしれません).


  • 1. 選挙に行くのを面倒がる人は子どもをどこにも連れて行かないか

根拠がないです.投票に行くことの効用と自分の子どもを遊びに連れて行くことの効用は違うでしょうから,前者をしないから後者もしないだろうという予測には何の確からしさもありません.

  • 2. 「どこに入れても同じ」とは読解力の問題か

読解力に問題がある人もいないわけではないでしょうが,こういうことを言う人の多くは,どの候補者・政党に投票しても日本の政治や自分の生活は良くならないといった趣旨を含意しているのではないでしょうか.あるいは,もっと別の可能性もあるかもしれません.ここで駒崎さんは,(仮想的な)発話者の思考を意図的に矮小化しています.政治家がよく使う手法ですが,(戯画的な類型化を伴いながら)不当に子ども扱いをして人格を貶めるこの言説は,許されるべきではありません.

  • 3. 選挙がよく分からないと仕事もできないのか

当然そんなわけないです.根拠がありません.仕事関係で人が調べ物をするのは,それを必要だと認識しているからでしょう.選挙についても同じ認識がある人は仕事同様に調べるコストをかけるでしょうが,認識が違う人はわざわざ調べません.それだけのことです.

また,仕事や他の用事(介護や育児など)で忙しいために調べるコストをかけたくても十分にかけられない人もいるでしょう.政治や選挙のことをよく分からないと発言しただけで,なぜ仕事ができない人の扱いを受けなければならないのでしょうか.

身近な地方政治のことでも詳しく知っている人の方が少ないと思いますし,それを小手先で仕入れた情報を盾に「分かったふり」をしている人のほうが余程信用に足らない可能性もありますし,そもそも「分かったふり」をするかどうかは投票と無関係です.分からないのは悪いことではないですし,分かろうとする必要も感じないなら無理に調べなければならない理由もないです.人生には他にも重要なことが沢山あるでしょう.

  • 4. 「期日前投票を知らない→インターネットを使えない→労働市場的に無価値」なのか

この点に関しては意味不明なレベルですが,期日前投票の存在は知っておいた方がいいと私も思います.でもそれは(当該記事の文脈で言えば)彼女が教えてあげればいいのではないでしょうか.それから,若い若くないに関係なく,今でもインターネットを使わずにする仕事というのはいくらでもあると思います.もちろん使えるに越したことはないのでしょうが,使えなければ「未来はない」ので別れた方がいいというのは,これは端的に(能力、職業への)差別なのではないでしょうか.

  • 5. 政治家を信頼していない人は他人をレッテルで判断する人か

駒崎さんのこの記事全体が,「選挙に行かないヤツはこういうヤツに違いない」という根拠なきレッテル貼りのオンパレードなのですが,そのことはどう考えておられるのでしょうか.政治家がひとくくりにできないように,選挙に行かない人もひとくくりにするべきではないでしょう.ナンセンスです.

それとは別に,政治が悪さ加減の選択であるとするなら,政治家一般が信頼できなくてもよりマシそうな候補者・政党を選ぶのがよりよい選択なのだと私も思います.でも,どうしてもどの選択肢も信頼できないときに棄権といった選択をする人がいても,それは責められないだろうとも思います.少なくとも,恋人を属性だけで選ぶような人間だといった不当な決めつけで人格を貶められてよいだけの理由など存在しないでしょう.

  • まとめ. 選挙に行かないことは将来への無関心を意味するか

これも根拠ないです.選挙に行かないことだけをもって,なぜ社会や恋人や子どもの将来に関心がない人間だという判定をされなければならないのか.なぜ選挙だけにそこまでの特権的意味を与えるのか.不自然です.これは全然あたりまえな考え方ではありません.これは投票行為そのものを何かの免罪符にする考え方です.逆に考えてみて欲しいのですが,会社やら労働組合やらの動員によって決められた候補・政党に投票した人は,それだけで何か未来への責任を果たしたことになるのでしょうか.投票していない人よりも社会や恋人や子どもの未来を真剣に考えている証になるのでしょうか.そんなわけないです.

選挙だけに特権的な地位を認める考え方は止めるべきです.選挙以外にも政治参加の方法は沢山あります.それはデモやロビイングだったり,政策提言や言論活動だったり,訴訟だったり,あるいは消費活動を通じたものだったりするかもしれません.住まいや地域の活動への参加も政治参加でありうるでしょう.何らかの理由で選挙に行かなかった人でも,さまざまな別の方法を通じて,選挙に行った人よりも一層積極的な政治参加をしている可能性もあります.民主政治の帰趨に対する私たち一人一人の責任も,その多元的な経路の隅々に染みわたって現れてくるものだと思います.少なくとも,選挙に行かなければまともな大人ではないといった趣旨でもって展開される言説戦略は妥当なものではなく,拒絶されるべきです.

Sunday, June 30, 2013

原発事故子ども・被災者支援法について


昨年6月に成立した「原発事故子ども・被災者支援法」について,簡単なメモをしておきます.

この法律は,福島第一原発事故後に避難・帰還・居住継続のいずれを「選択」した人も,住居・教育・医療などの必要な支援を受けられるように処置を講ずる国の責任を定めたもので,超党派の賛成によって成立しました.

しかしながら,成立後一年を経ても,十分な具体的措置が行われていない状況にあります.あまり広く知られていないようですが(私自身も注意を払ってきませんでした),重要な法律ですので,ご関心を持たれた方はぜひ,以下などから情報を入手して下さい.


    • 具体的支援策の実現を求める団体のサイト.「支援法とは」のページから,法律の概要やポイントを知ることができます.Twitterアカウントはこちら

    • 参議院が発行する調査資料.法律が成立した経緯を知ることができます.


Monday, May 13, 2013

掲載・公開告知: 「日本社会の分岐点――政権交代後、震災後の政治をめぐって」



  • 源島穣/西村理/松尾隆佑 [2013. 3] 「日本社会の分岐点――政権交代後、震災後の政治をめぐって」『政治をめぐって』(32): 53-98.


司会を務めた座談会が,院生による専攻誌『政治をめぐって』(法政大学大学院政治学研究科政治学専攻委員会)に掲載されました.専攻委員会のHPから読むことができます.なお,今号は私が編集責任者を務めております.

座談会の内容は政権交代後から2012年11月末までの日本社会の状況を振り返るもので,その時点での「記録」の一種として見て頂ければと思います.その後半年の状況を補完する意味もあり,5月18日に検討会を開催することになりましたので,奮ってご参加下さい.

なお,同号には拙書評も掲載されており,こちらも近日中に公開される予定です.その際には改めて告知致します.


  • 抜粋
 松尾 最近出版された民主党の研究書では、民主党を「資源制約型政党」と捉えています(上神/堤 2011)。自民党一党優位体制下で野党であり続けた以上、政府と結びつくことで利用可能な資源へのアクセスが困難なのは当たり前ですが、無党派層が増えていく状況では、社会から資源を調達することも難しくなってしまったと。つまり人々が政党と恒常的結びつきを持たなくなるわけですから、党費や投票、選挙応援といった形の協力を得にくくなる。さらに、政権を奪ったあとも、利益誘導政治への批判や財政制約などに直面して、国家資源を党派的に利用することはもはやしにくくなっていたと。
 斉藤淳さんの言葉で言えば、「エコヒイキ」(=利益誘導)はもうできないけれども、バラマキは叩かれる(斉藤 2010)。目玉政策だった子ども手当もあまり支持を集めず、譲歩を余儀なくされました。特に財政制約ということが強く意識されるなかで、経済成長でパイを増やすということにはあまり期待できないし、小さくなっていくパイをどう分けるか、また、負担や不利益をどう引き受けてもらうかということが課題になっていかざるをえない。「不利益分配」ということを真剣に考えなければならない(高瀬 2006)、社会全体が資源制約型の社会になってきてしまっているような状況があります。統治の主題そのものがNIMBY(Not in my back yard)問題の解決に近づいてきているとも言えるかもしれません。源島さんが言われたような、財政制約のような客観的状況は政権交代をしても変えられるものではないという認識は、一見当たり前のようですが決定的に重要です。
 湯浅さんは、現在の日本政治に対して当事者意識を持たずに非難を浴びせる人々の姿を、「アイロニカルな政治主義」という言葉で表現しています(湯浅 2012a)。つまり、自分自身が政治の当事者であるという自覚がないまま、政治がだらしないのは政治家や官僚、マスコミが悪いからだと一方的に帰責して、「言いっ放し」で終わってしまいがちになる。「決められない政治」へのフラストレーションを、強いリーダーが快刀乱麻に解決してくれることを望んでしまう。そこでは複雑でシビアな調整と妥協を伴う政治そのものの難しさは認識されず、誰かがバカだったり怠けていたり、逆にずる賢かったりするから、今の政治はダメなんだということになります。そういう人たちは一見政治に対する関心が強いようなんだけれども、実は政治嫌いのシニシズムと親和性が強いのだと、湯浅さんは言います。自分自身を政治のアウトサイダー、要するに「お客さん」だと捉えているわけです。これは未組織・無党派の都市民の層が厚くなっていることの帰結でもあるわけですが、あくまでも政治システムの消費者にとどまろうとするから、その言説は不満と批判がベースで、政権を支えてよりマシにしていこうとするモードになりません。こういう環境のなかで議会政治なり、政権運営なりをしていくというのは、かなりの困難があると思います。
[…]
 松尾 デモと党という話をしてきましたが、これは民主党政権を囲んだ社会の姿とそのまま連続しています。言うまでもなく、「ふつうの人」は、何の特性もない無色透明・不偏中立の人々ではありません。それぞれに特性があり、自分なりに政治的志向性や意見・立場を持つか持とうとしている、一個一個の人間です。新しいデモの「新しさ」を強調するために、未組織であるとか無党派であるなどといった中心的参加者の属性を指して「ふつうの」と形容することは、それ自体がサイレントマジョリティ(「99%」)を背に負おうとする、極めて政治的な物言いです。それにもかかわらず、こうした言説は「ふつうの人」こそが政治的に不偏中立で、正常で、健全であるかのような印象を身にまとうことで、それ以外の人々は偏っていて、異常で、不健全であるかのようなイメージ操作を、隠れたメッセージとして含んでいます。自らの党派性を引き受けずに、「ふつう」であることを恃みにして「特殊」な敵を攻撃しようとする、政治的言説です。
 すなわち、ここでもアイロニカルな政治主義やシニシズム、つまり政治を自らのものとして引き受けることの拒絶という問題が横たわっています。デモは社会を変えられるかという議論は今も盛んですが、デモを社会変革の力にしていくためには、仮にアドホックなものとして位置づけるにせよ、人々に何らかの形で自らの党派性を引き受けさせる必要があるのではないでしょうか。
 新しいデモの非暴力性を強調する五野井さんのようなストーリーでは、日本のデモは60年安保の当初は市民中心の非暴力的な性質を持っていて、図で言えば〈遊び〉の象限にあったんだけれども、樺美智子の死を転機に新聞各社が転向すると運動に暴力的というラベリングが行われて〈災害〉の象限へ転落し、全共闘による暴力イメージの定着を経て〈労働〉象限の退屈なデモへと落ち着いたことになります。その歴史認識からすれば、今のデモは〈労働〉から〈遊び〉なり〈儀式〉なりの象限へ再びデモの価値を上昇させる転機になったという意味づけができる。しかし、これは小熊英二さんの議論についても言えることかもしれませんが(小熊 2012)、日本の社会運動を60年安保や全共闘運動だけで語るとしたら、随分狭いところで議論をしているという印象が拭えません。
 もちろん彼らは反戦平和運動や沖縄の問題、水俣病などについても言及していますし、そこまで単純ではありませんが、全体としては過去が暗い時代として描かれている印象を受ける。そこからは、たとえば女性運動や障碍者運動などがどれほどの達成を果たしてきたのかは見えてきません。これまでの運動がダメで今の運動はいいという安易なストーリーに堕さないためには、過去の社会運動がどのくらい社会を変えてきたのかということを、冷静に見積もる必要があります。言い方を換えると、今の私たちの「ふつうの」暮らしが、いかに過去の党派的な運動の数々によって築かれてきたかという歴史を学ばなければならない。
[…] 
 松尾 党派性、あるいは当事者性と言い換えてもいいのかもしれませんが、そういう性質が「苦役」、つまり強いられた運動にはより明確に現われているのでしょうね。運動の拡がりは出にくいかもしれませんが、その切迫さが何らかの回路で社会一般の状況と結びつけば、人を惹きつける可能性もあります。
 そもそも、運動が必ず拡がりを持たなければならないものかと言えば疑問です。あらゆる運動に社会一般へのアピールを通じた成功を追求させることは、あらゆる地域に創意工夫による経済的自立を求める態度と似ています。社会を変えるためには自分が変わらなければならない、まず自分から動かなければならない、といった自己啓発的主張も同じところに発します(小熊 2012)。しかし、私たちがどこに生活しているかによって関心を違えるような主体であるとすれば、無数の「当事者」が変わらないままで政治的発言権を持ちうるような回路を考えるべきではないでしょうか。
 左派的立場を採る人は、多様な差異を持つ人々が差異を保ったまま「大同団結」して「支配層」に対抗するような成功イメージを描きがちです。私はそうした戦略を「良いポピュリズム」論と呼んでいますが、同じポピュリズムである以上、一時成功したとしても、安定性・持続性は期待できません。戦術レベルでポピュリズムを利用することまでを否定しようとは思いませんが、少なくとも私は、浮動する政治状況を許したままで「上手くやろう」とする技術論よりも、割拠するいくつもの党派のそれぞれに社会への利害伝達回路が確保されるような制度論を考えたい。
[…] 
 松尾 切迫さということで言うと、「ふつう」であることを恃みにする言説とは逆に、当事者性に基づかない運動や政治参加を批判する立場も見られますね。たとえば福島原発周辺の地域社会を研究してきた開沼博さんは、震災後に盛り上がっている脱原発運動を原発立地自治体などの「現場」を知らない人々が自分勝手に騒いでいるだけだと切り捨てていますし(開沼 2012a; 開沼 2012b)、東さんもツイッターなどで、官邸前デモは切実な当事者性を持たない人々がシングル・イシューで集まっていると否定的に評価しています。これらの言説は一種のポピュリズム批判であるわけですが、裏を返せば「よく知らないことには口を出すな」と言っているようにも読める。しかし、それはこれまで「原子力ムラ」を温存してきた専門家にお任せの態度と似通ったものではないでしょうか。
 当事者性を狭く解しすぎることが問題を生む要因の1つなのだと思います。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、原発立地自治体に限らないあちらこちらに「現場」を生むわけですから、当事者がどこにいるのかということは予断できません。中国や韓国の原発が爆発したとき、日本海沿岸の住民が自分には関係のないことだと考えるでしょうか。加えて、そもそも放射能の危険性を知らなければ、たとえ原発のすぐそばに住んでいても自分が当事者だとは思わないかもしれません。それは極端な例ですが、人は自らの当事者性を十分に知っているとは限りませんし、まして他人の当事者性を決めつけることはできません。人が何に切実な利害関心を持っているかということを他人が決めつけるのは、それこそ勝手な口出しではないでしょうか。


*追記: 発言部分の抜粋を掲載しました(5/15).

Thursday, December 13, 2012

選挙は何も決められない


小林良彰は,著書『政権交代――民主党政権とは何であったのか』(中央公論新社,2012年)のなかで次のように述べる(156-157頁).

 ここで日本の政治の仕組みを振り返ってみると、われわれは「選挙の際に候補者が提示した公約のなかで、有権者が自分の考えに近いものを選び、投票を決定する」ことで「自分たちのことを自分たちで決定する」代議制民主主義が機能すると想定している。こうした代議制民主主義が機能しているのであれば、政治家の行動の一端は、彼らを選んだ有権者の責に帰することになり、機能していないのであれば政治家の責を問わなくてはならない。

そこから小林は,この機能を検証するためとして,2009年衆院選を対象に次の3つの分析を行う(157頁以下).

  • (1)民意負託機能の検証(争点態度投票の有無):
    • 「有権者が候補者の提示した公約のなかで最も自分の考えに近いものを選択し、そうした公約を提示する候補者に投票しているかどうか」
  • (2)代議的機能の検証:
    • 選出された政治家が選挙公約と合致した国会活動をしているのかどうか
  • (3)事後評価機能の検証(業績評価投票の有無):
    • 「有権者が政治家や内閣の業績に基づいて投票行動を行っているかどうか」

(1)について小林は,有権者の投票行動の多くは政党支持・内閣支持や職業などによって決定されており,争点態度投票はほとんど行われていないと指摘する.次に(2)(3)について,選挙公約と国会活動の一致度が次の選挙での得票率に関連していないことから,有権者の投票行動は業績評価によるのではなく,主に候補者の所属政党や経歴によって決定されていると結論する.小林によれば,民主党が大勝した2009年衆院選での有権者の投票行動は,自民党に対する懲罰投票として理解される(166頁).業績評価は政党支持・内閣支持を通じて間接的・限定的に行われているが,政策上の業績に対する直接の評価は見出しにくいとされる.

したがって冒頭に掲げた問いに与えられる答えは,「機能していない」である.

政治家が有権者に約束した公約から離れて国会活動を行って政策を形成しているために、政治的有効性感覚が著しく低くなっており、そのため選挙に際しても、政党政治家が提示した公約を信頼することなく投票を決定し、さらに、実施される政策に対する評価とは乖離して次の政党候補者選択を行っているのが、日本の選挙の実態である。 (172頁)

こうした分析に基づいて小林が提出する処方箋について,ここで扱うことはしない.検討したいのは,投票行動の性格である.

疑問点は主に二つある.まず,候補者の帰属政党が選挙結果の重大な決定要因であるならば,具体的な公約内容や国会活動の吟味がなくとも,政党をラベルとした大まかな意味での争点態度投票(issue voting)や業績評価投票が行われていると言えるのではないか.逆に言えば,そもそも選挙ではその程度のことしかできないのではないか.

いくら個別の政策領域を争点として重視しようとしても,候補者の公約はパッケージとして示されているために,単一の争点だけで選ぶことは難しい.さらに,公約実現は候補者が所属する政党内部での調整次第だと考えられれば,わざわざ政策内容を吟味して投票先を選ぼうとするインセンティブはますます弱くなる.大臣経験者や官僚出身者など,特定の経歴が得票に有利に働くこと(165頁)があるのは,政策の実現可能性が高いと考えられるためだろう.有力政党間で政策的距離が近いと有権者の実質的な選択可能性が乏しくなるという問題(180-182頁)を別にしても,選挙は政策で投票先を選ぶものだという考えが現実に妥当する程度は,極めて限られている.

次に,業績評価投票(retrospective voting)は「将来への期待に動かされて投票行動を決定する」(prospective voting)のではなく「過去の実績という視点から自分の投票行動を決め」ることだとされるが(167頁)、しかしこれらはそれほど明確に分けられるものではない.実績が重視されるのはそれが期待の確からしさ――「きっとやってくれる」――を導くからであろうし,有権者が候補者の経歴を重視するのも,そこに実績のシグナル――「立派な人に違いない」――を見るからであろう.

選挙は有権者の「審判」と言い表されることが多いけれども,回顧的にのみ行われる投票はありえない.有権者にとって,期待形成に動機付けられない業績評価は無意味であり,たとえ過去の業績が悪くても他に期待可能な選択肢がなければ,投票行動を変えることはないだろう.2009年の衆院選で民主党が勝利したのも,単に自民党への懲罰=業績評価のためだけでなく,期待可能な選択肢として民主党が成長していたゆえでもあったはずである(遠藤晶久「業績評価と投票」, 山田真裕/飯田健 (編) 『投票行動研究のフロンティア』おうふう, 2009 年, 7章, 151頁を参照).選挙が過去の実績の判断を有権者に仰ぐものであるという考えも,限定的にしか妥当しない.

選挙にできることは大したことではない.人々の利害をできるだけ的確に政治システム内部に反映させられるような,よりよい選挙のあり方を考えていくことは重要である.だが,もともと選挙にできることは限られているという点を忘れてはならない.「民意」は選挙前や選挙過程を通じてのみ現れるわけではなく,予め確固たる姿形を持っているわけでもない.政治的な代表性や応答性(アカウンタビリティ)が選挙を通じてのみ得られると考えてしまうなら,選挙で勝利した者こそが民意の体現者であり,何をしても許されるということになってしまうだろう.しかし,選挙があるかないかにかかわらず,民意の伝達・反映は絶えず行われねばならないし,応答性も確保されねばならない.

デモクラシーにとって,選挙はごく限られた意味しか持たない.選挙がすべてだと考えるときに忘れられるのは例えば,有権者ではない人々や,何らかの理由で権利を行使できない人々のことである.彼らは選挙に参加できない.しかしそのことは,政治に参加できないことを意味しない.未成年は選挙権を持たない.だが彼らは政治的権利を認められており,自らの意見を世に発信したり,街路を埋め尽くしたりすることはできる.定住外国人には選挙権を与えるべきであろう.だがこの主張は,選挙権がないあいだは彼らの声に耳を傾けなくてもよいということを意味しない.ここでは言及しきれないすべての政治的無能力者にも,代表性と応答性が確保されるよう,模索が為されねばならない.デモクラシーは彼らに開かれており,政治は選挙の外へと無限に延びている.




Tuesday, September 18, 2012

リーダーは個人的属性で選ぶべき?


河野勝先生がブログに「政治リーダーシップ論」と題する記事を書いており,あるべきリーダーシップ論について,四点に分けて論じています.興味深い内容なので,読みながら感じた疑問を幾つか書き留めておきたいと思います.

一点目(ろくなリーダーシップ論がない)はスキップしてまず二点目からになりますが,

リーダーを語るからには、そのリーダーの個人的属性について語るべきなのであり、たとえば理念とか政策とかを持ち出すのはおかしい。理念や政策は、そのリーダーが属している政党や団体の属性である。だから、「リーダーを選ぶ基準として理念や政策を大事にする」というのは、(独裁者を好むのであれば別だが)ボクは理解できない。

というくだりが,私には理解できません.

理念や政策が,「そのリーダーが属している政党や団体の属性である」べきだから,リーダー候補の「理念とか政策とかを持ち出すのはおかしい」と言うなら解ります.だが,現実にはリーダー個人に属している範囲の理念や政策が政党や団体のそれらに大きな影響を及ぼすことが多いのですから(e. g. 小泉純一郎と郵政民営化), 「リーダーを選ぶ基準として理念や政策を大事にする」 のは当然ではないでしょうか.

また,学術的なリーダーシップ論としては,特定の理念や政策とのかかわり抜きにリーダーを評価しうる基準を提示すべきだという論なら理解できますし私もそう思いますが,ここで河野先生が述べているのはそういう趣旨ではないでしょう.その種の話に近いのは,引用した箇所の次(三点目)に出てくる「集められる限りの情報を集めさえすれば、その中から自ずと答えが出てくるような」ものではない決定を行える能力こそリーダーに求められる,という主張の方だと思われます.

これは支持不支持は別にして理解できる立場ですし,2008年頃から言われている「決められない政治」批判とも結び付けやすいものです.政治的な決断と責任を委ねうる主体としてのリーダー像,ということになるかと思います.私は「決められない政治」批判に与したくはありませんし,例えば野田首相が原発再稼働のような決断の責任を「とる」ことができないのは明らかですが,そういった責任を「帰する」ことができる制度的仮構としての主体(象徴?)が必要なのは理解できます.

最後に述べられている四点目の主張には,私は明確に反対です.リーダーは自らのプライベートな情報も開示すべきであるという点については,その必要はないと思います(自ら進んで開示する自由は尊重します).リーダー選出にあたっては私生活についての情報も評価の対象にするべきだという主張については,そういった側面を評価対象にしたい人が勝手にすればいいと考えます.有力政党のリーダー候補になるほどの有名人なら少量でも何らかの情報はこぼれてくるでしょうし,その種の情報は知りたい人が勝手に調べればいいのです(「二流週刊誌」が既にこの需要に応えているなら,わざわざその役割を「主流のメディア」に移すべき理由は乏しいように思われます).

リーダー候補の個人的属性が重要であるとしても,個人的属性のすべてが重要であるわけがなく(概して言えば,「食事の好み」が取り上げるに値する情報とは思えません),では個人的な属性のなかで何が重要なのかは明らかとは言えません.個人的属性を考慮すべきだから私生活についての情報を報道すべきだと言うのは飛躍ですし,あらゆる属性が多少なりとも考慮に値しうるとすれば,例えば外見的特徴の扱いが問題にならざるをえません(別に扱っていけないとは断言しませんが,疑問は覚えます).

以上,私の疑問をまとめると,「リーダーを選ぶ」ことが「個人的な属性を選ぶこと」であるとしても,何が考慮すべき属性であるのかが直ちに定まるわけではなく,また,リーダー個人の属性は彼が指揮する集団の属性に影響を与えうる(場合によっては,集団の属性から影響を及ぼされうる)のだから,個人にのみ属する性質をだけ考慮すべき理由は存在しない,ということになるでしょうか.個人的な資質も当然重要ですが,独裁者を好むのでないのであれば,理念や政策も同等かそれ以上に考慮すべきです.

Thursday, February 2, 2012

原発と直接投票――ステークホルダーの観点から


私は政治理論を専攻していて、とりわけ「ステークホルダー」(利害関係者)という概念をテーマにした研究を行っています。企業の意思決定に対するステークホルダーが株主だけでない従業員や消費者、地域社会、環境などを含むように、政治も、法的な権限に根拠づけられないような多様な主体を想定できるのではないか。権利はないが重大な利害関心はある――というように、ステークホルダーという観点を用いることで、デモクラシーの中に存在する様々な「境界線」を問い直すことができるのではないか。大ざっぱに言うと、そうした問題意識から研究をしています。

福島第一原子力発電所の事故とその後の原発をめぐる議論は、まさにこのステークホルダーという観点に多くの対応を持つものでした。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、地理的境界や行政単位の別を飛び越えていきます。原発からどれほど離れようが、どこ/何がどれほど汚染されているか分からなければ、誰がステークホルダーであるのかは確定できません。その範囲は、これまで原発とどのような関係を結んでいたかにかかわりなく、いくらでも拡大していく可能性があるのです。こうした状況を言い表すのに、ステークホルダーという語は極めて適しています。それは法的な権利・義務に限られない多様な利害関係に基づく主体を指すものであり、本来的に範囲が不確実で曖昧な対象を意味するからです。まして、原発の廃炉や使用済み核燃料の処理は、遠い未来にステークホルダーを生み出し続けます。原発や放射能を巡る議論は、時間的・空間的に茫漠と拡がる影響範囲を念頭に置き続けることを私たちに要求するのです。

原発について語ることが帯びるこうした一種茫漠とした性質は、政治における困難をも連れてきます。今や誰もがステークホルダーたり得ることが明らかな以上、「現地の声」を何よりも重視する素朴な「当事者」主義が批判されるべきなのは明らかです(それは首都圏の立場を全てとすることと同程度には馬鹿げています)。しかし、では原発立地自治体での決定過程に「部外者」がどこまで介入することが許されるのかは、容易に結論できる問題ではありません。他方、誰もがステークホルダー「だからこそ」、全ての声を聞くことはできないのであるから、まずは専門家や特定の関係団体による議論を先に置くべきである、との主張も有り得ます。この場合、ステークホルダーの観点は、責任を曖昧な全体に解消しながら既存の秩序を温存するために働きかねません。

本来であれば、ステークホルダーの範囲が広く拡散する問題については、国レベルで一般的・長期的視座からの議論が重ねられるべきでしょう。ですが、周知の通り、現在の日本ではそれは難しい状況にあります。それが、ある特殊な意味におけるステークホルダーとしての側面を持つ政党・国会議員が多いという事情に因るのかは、ここでは問題にしません。議会が頼れないのであれば、どのような手段が有り得るのかを考えるべきです。議会政治・政党政治が原発を語ることが難しいのであれば、議論の舞台は別の形で準備するしかありません。そうした立場から展開されているのが、原発に関する直接投票を求める動きです(「東京「原発」都民投票/大阪「原発」市民投票」を参照)。

しばしば指摘されるように、選挙で候補者や政党に投票することは、パッケージとしての選択です。そこでは異なる様々な分野についての様々な政策が一緒くたに問われますから、個別の政策についての支持・不支持を表現することは事実上できません。単一のイシューを問う直接投票ならば、それが可能になります。議会政治・政党政治の中で表現されない意思を政治に反映させる上で、直接投票は極めて重要な役割を果たせるのです。もちろん、支持・不支持を決定する様々な理由の別は直接投票でも表現できませんが、そうした多様な立場の意思が反映される可能性は、直接投票を控えた社会を舞台とした議論が、どれほど豊かに為されるかにかかっています。直接投票を求める運動は、意思決定の舞台に参加できないステークホルダーたちが、自らに合わせて政治の舞台を新たに構成しようとする政治です。今や誰もがステークホルダーであるとすれば、私たちは既にこの構成的な政治への態度表明を求められていると言えるでしょう。


Thursday, November 18, 2010

「暴力装置」イコール問題発言の構図


仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 抗議受け謝罪、首相も陳謝

http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010111801000326.html


ツイッターでは政治家が政治学/社会学における初歩の初歩も知らないのか、として批判者を問題視する反応が(私のタイムラインでは)多かったように思いますが、今回の事案で重要なのはヴェーバーやレーニンがどうということではなく、現代の日本において市民がいかに訓致化されているかということです。

市井の一般の人々がヴェーバーなど読むはずもなく、その多くが暴力なる機能語に規範的意味を過剰に読み取ってしまうのは自然であり、その反映としての側面を持つマスメディアや政治家が仙谷発言を批判的に捉えること自体は大した話ではありません。日本ほど相対的高度に民主化された国家において、軍事組織を「暴力装置」と表現することがこれ程の反発を呼び起こすのは、むしろ当然です。


国家は、特定領域において暴力を唯一合法的に独占行使します。しかし、円滑な統治のためには、暴力に基づく威嚇や強制が日常的に露わとなっては、都合が良くありません。それは国家と対抗的な暴力の存在を意識させ、統治の安定化を妨げるからです。暴力は直接よりも間接に働く方が、できるだけ人々から遠く、誰にも見えないような形で使われる方が、統治のためには望ましい在り方です。

民主化が高度に達成されているということは、統治権力に大衆が同化されている(と感じられる)度が高いということですから、統治を担保する軍事組織を暴力として表象させることに人民が反発するのは、当然に予想できることです。むしろ民主化の程度が低い国家である方が、統治権力が頼みにする軍事組織を「暴力装置」と表現することへの、一般市民の抵抗感は少ないでしょう。ですから今回の仙谷発言に対する反発は、「左翼は遠くなりにけり」という以上に、日本が(相対的)高度に民主化を達成している国家であることの証左として受け止めるべきなのです。


しかし、それが単に言祝ぐべき事態であるのかどうか、私は知りません。「国際協力や災害援助のために働いている自衛隊の皆さんを暴力装置呼ばわりするなんて」と憤る人々の姿には、その銃口が自分たちに向く可能性への想像も感じられなければ、その銃口の向きを自分たちが決めていることへの意識も見えません。「暴力」の語を隠蔽しようとする身振りの中に、それによって支配される側に回り得る実感もなければ、それを通じて誰かを現に抑圧・搾取している自覚も存在しないように思えます。現実には、ある民主的決定が為される度ごとに、いつも少数の反対者が、かしこに遠望される暴力装置の前に屈しているのですが。

無論、これこそが円滑に運営される民主的統治の(一つの?)姿なのです。市民は権力に訓致されていると同時に、権力へと訓致されています。そして、その権力は、できる限り暴力的な造形が露わとならぬよう、粉飾されねばなりません。誰しも、被害者になりたくないのと同時に、加害者として手を汚すことを嫌うからです。暴力装置を隠蔽しようとしているのは、一部の政治家やマスメディアではなく、彼らの振る舞いを規定している人民です。われら主権者の持つ武器の煌めきを言挙げすることは、はばかられなければならない無作法なのです。これが教育によって相当程度解決される性向なのか、あるいはより根が深い問題なのかについては、今のところ私は答えを持っていません。


Monday, May 10, 2010

公訴時効廃止に何を見るべきか


先月末、重大な罪の公訴時効を廃止・延長する内容を含む改正刑事訴訟法および改正刑法が成立した。これに伴って全国犯罪被害者の会(あすの会)が発表したコメントによれば、今次の改正は「犯罪被害者の多年にわたる悲願」である。

だが、『法律時報』5月号で白取祐司氏が指摘するように*1、改正案の提出に先立つ法務省法制審議会刑事法(公訴時効関係)部会等での議論においては、公訴時効の存在意義にまで遡った根本的な討議が闘わされた形跡は薄い*2。今次の改正を後押ししたのは、そうした原理的なレベルでの刑罰観の修正であるよりも、むしろ犯罪被害者(遺族)たちの「声」に共鳴・共振する「世論の声」であり、政府側もその事実が法案成立の推進力であると公然と位置付けていた*3

多くの人々が公訴時効廃止・延長を支持した/していることには、もちろん本人の自発的感情も無視できないとはいえ、メディアを通じて表象される犯罪被害者(遺族)の感情に影響されたところが大きいと思われる。これは感情による選好形成という意味で、まさに「情念」に基づく政治過程の実例である。そして、ここで重要なのは、政治を動かす世論を形成する情念が、自分自身から発する以上に他者の情念に「共感」することで増幅された情念であるということだ。このように観察される社会的現象が持つ理論的意味は小さくないように思う。


さて、時効制度については当ブログでも何回か採り上げていて、2009年5月には時効廃止論議が進む中で「時効はなぜあるのか」を問い直したエントリを書いている。そこでは刑事・民事両面にわたって時効制度の根拠と機能を整理しているのだが、通時的な連続性の中で個人の人格同一性が相対化されていくとする比較的広く共有されていると思われる感覚と時効制度の存在を結び付けて考え、それにもかかわらず時効を排そうとする動きが出てきたことの由縁を簡単に考察してもいた。

この点はその後「社会の個人化と個人の断片化」と題するエントリで、多少敷衍してみてもいる。その部分を引いておこう。


でも、そういう個人の断片化みたいな話は理解しやすいんだけど、私が混乱するのは、その一方で時効制度への否定的見解が強まっているのをどう考えたらいいんだ、ということ。時効制度の有意義性を否定するということは、個人の通時的流動性を軽んじて統合性を重んじ、人格的同一性を絶対的に捉える立場に連なることを意味する。それは個人の断片化傾向と矛盾するではないか。この問題は結構前から気になっているのだが、あまりきれいな答え方はできそうにない。

時効制度への否定的見解が力を得ている背景については、既に一応「司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性」を提示してみたことがある。

二つの傾向を整合的に理解するための一つの選択肢としては、ポストモダン的な流動性上昇というものは、あらゆる単位に対して、より小さな単位への離合・分解を迫るものだ、と考えることはできるだろう。それが(企業や家族を含む)社会に対しては個人化を、個人に対しては個別のキャラ/ペルソナ、あるいは刹那的な「意識」へとバラけていくことを促しているのだ、と(さらに原子化した個人は「本質化」に向かいやすいことでもあるし)。だから、内的には断片化(刹那化)しつつある個人が、対他的・対外的には統合的人格観を押し出すようになるのは、決して矛盾ではないのだ、と。


おそらくは、社会の個人化を背景にして個々の主体に結び付けられる属性が本質化される――個人の特性がある集団への帰属によってではなくその個人生来の「宿命」と見做される――ために、他方で主体は刹那性を増して一層細密に分節化された形で捉えられているにもかかわらず、いやむしろ、そのような刹那化が主体の通時的連続(存在)性を弱めたためにこそ、本質化された罪が過去の刹那と現在の刹那をショートして、今・此処の私たちの前に再想像される*4。そのように考えた方がよい。そこでは、法制の根拠となっていたはずの社会学的現実、積み重ねられた時間とその間の生活という現実が、もはや罪を終わりにするだけの説得力を持たなくなったのである。



参考




*1:白取祐司「公訴時効制度「見直し」法案への疑問」(『法律時報』2010年5月号(通巻1021号)、2010年4月27日)。


*3:法制審議会第162回会議 配布資料5「公訴時効制度に関する世論調査について」。

*4:このように考えると、宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』の議論とも接点を持つだろう。


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