塩川伸明『民族とネイション』を読了。広範囲に目配りの利いた良書だとは思いますが、全体的に広く浅くという印象で、ほとんど刺激は受けませんでした。著者が専門とする地域での掘り下げがさしてあるわけでもないので、一番有用なのは巻末のブックガイドかなという気がします。要するに教科書的なのですが、導入書としては敷居が微妙だし、民族問題やナショナリズムについて最初に読むべき数冊の中に入れるには押し出しが弱い。いや、内容にケチをつけているわけではないのですが。
ネーションやナショナリズムについては「現代日本社会研究のための覚え書き――ネーション/国家」で考えをまとめたということもあり、自分として書くことは特別無いのですが、以下に引く濱口先生の議論について少し。
右翼左翼と社会的なもの、国家、ナショナリズムなどについての濱口先生の一連の議論にはとても興味深いものがあり、常日頃から注目して読ませて頂いているわけですが、幾つか疑問もあります。せっかくですので、今回はそうした疑問をまとめてぶつけてみたいと思います。なお、本来はコメント欄で済ませられるようなことなのですが、既に幾分か日が過ぎてしまったこともあり、こちらでエントリを立ててお聞きする形にさせて頂きました。濱口先生におかれましては、ご理解の程を賜りたいと思います。
疑問は3点に分かれます。いずれもごく基本的な論点ですが、それゆえに重要であると思います。
(1)ナショナリズムが重要だと言う際、その主体となる国民(ネーション)とは誰なのか。国家が保護・配慮すべき範囲はどこからで、境界によって閉ざすべき範囲はどこまでなのか。
:周知の通り、憲法学においては、能動的主体の集合体としての「人民」と抽象的統一体としての「国民」が概念的に区別されます。思想的・理論的な議論をするならば、「国民主権」と言う場合の主権者も、ナショナリズムの担い手となる主体も、後者の「国民」であると考えるのが一般的です。しかし、この意味での抽象的「国民」は必ずしも国籍保持者に限定されるわけではなく、在住外国人なども含まれ得ることが知られています*1。国籍取得の要件も一様では有り得ませんが、国籍を持っている者だけが国民であると考えるべき必然性も無いとすれば、ナショナリズムを語る論者は常に、自らが想定する国民の範囲をある程度まで明らかにした上で議論を立てるべきでしょう。抽象的にナショナリズムを批判する振る舞いが愚かしいのと同様に、抽象的にナショナリズムを持ち上げてもどうしようもない――濱口先生がそれをしているとは思っていませんが――のであって、ナショナリズムの議論は常に特定の集団や具体的な文脈に結び付けて考えられるべきです*2。例えば在日コリアンなど二重の帰属を持つ人々は、濱口先生が構想するナショナリズムの内側に居るのでしょうか、それとも外側に居るのでしょうか。
(2)現代および将来において、ナショナリズムは(肯定的・否定的を問わず)それほど大きな機能を果たすことができるのか。ナショナリズムの主体となるべき国民の統合を保持ないし回復することはできるのか。できるとすれば、いかにしてか。
:この点は、ポストモダンへの突入による「ネーションの解体」と「ナショナリズムの不可能性」を提起した身として聞いておくべきだろう、といった程度のことで、無視されても構いません。ただ、(3)とも絡むことですが、現代におけるナショナリズムの動員がポピュリズム以外の形で為し得るのか、大きな懐疑を持つところではあります。
(3)ナショナリズムの危険性を自覚しつつも、穏当なナショナリズムを「活用」する必要があると言うが、そのような理想的な統御は、いかにして可能なのか。また、特定のナショナリズムが穏当(ないし「健全」)か否かは、誰がどのような基準によって判定するのか。
:通り一遍の批判と言われれば否定しませんが、やはりこの点を指摘しないわけにはいきません。「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」を分けられるとお考えになっているようには見えませんが、それでもナショナリズムの暴走を防ぎ、その肯定的な作用だけを抽出することが不可能ではないと認識されておられるなら、その認識について詳しくお聞きしたい。穏当な姿をしたナショナリズムの動員についての戦略と、力を得たナショナリズムを穏当なままに統御する手段を、どう考えておられるのか。穏当だと思われていたものがいつの間にかグロテスクな事態を引き起こすに至っている――「こんなはずではなかった」――といった例は、歴史の中に幾らでも見つけることができるはずですので。
以上、濱口先生に向ける形で書きましたが、これらの疑問は萱野稔人の所論にも共通して抱いているものです。高橋哲哉の主張に比して萱野の認識が説得的であることについて異論はありませんが、それでも萱野の主張に賛同することができるかと言えば、私にはそれは無理です*3。それは私が政治=線引き問題が不可避であることを認めつつもナショナリズムには全く期待していないためですが、他方では萱野の主張に不明朗な点があることも無関係ではなかろうと思います。そういったわけで、萱野の主張に肯定的に言及しておられ、ご自身でもナショナリズムの必要性を説いておられる濱口先生に一層詳しい説明を頂ければ、私の理解も深まって考えも変わるかもしれないと思い、疑問を書き連ねてみました。濱口先生以外の方からでも、ご教示を歓迎致します。
ネーションやナショナリズムについては「現代日本社会研究のための覚え書き――ネーション/国家」で考えをまとめたということもあり、自分として書くことは特別無いのですが、以下に引く濱口先生の議論について少し。
さて、特集の方ですが、高橋=萱野対談が、ナショナリズムを否定するのなら、国内で格差なんて言っても意味がないというテーマを取り上げていて、なかなか面白い。私からすると、
>格差を問題にするということがすでにナショナリズムの枠組みに乗っかっているということをまずは自覚しなくてはならない。
>格差を「問題」として浮かび上がらせることができるところに、ナショナリズムの肯定的な働きがあるわけです。
という萱野氏の指摘に対して、
>そうした国民のみを問題にするというナショナリズムによって、ヨーロッパでは移民排斥や外国人嫌悪につながっていく回路ができてしまっているわけですよね。あれと同じことを日本は繰り返すのでしょうか。
というような反応はあまりに表層的で、いや同胞皆同じというナショナルな平等主義があるからこそ格差を何とかしなくちゃと思うわけで、チープレーバーな移民をいやがらない精神は国民の間の格差を何とも思わない精神と表裏一体なわけで、そこまで言い切るのなら別ですが(というか、そういう考え方は十分あってしかるべきだと思いますが)、そこまでリバタリアンに徹する気持ちもなくただナショナリズムを批判していればそれでいいというのは、
>ナショナリズムをとにかく批判しなくてはいけないとか、とにかくナショナリズムを避けなければいけないと考える研究者や論客の根底にあるのって、潔癖主義なんですよね。いろいろな危険を持ったナショナリズムからいかに身を引き離すかを競うことで、自分の立場の無謬性を目指しているわけです。でも、それって結局は政治を道徳に還元しているだけなんじゃないでしょうか。
という萱野氏の指摘通りだと思われます。
[中略]
それが「希望は戦争」という直截な方向に向かわないようにするためにこそ、萱野氏がいうように、
>ナショナリズムが排外的な性格を強めていく危険性を押さえるためにも、ナショナリズムを活用しなくてはならない
>外国人労働者との過酷な競争にさらされた人たちが排外的なナショナリズムを激化させていくのを防ぐためにも、もうちょっと穏やかなナショナリズムを使って国内の労働市場を保護していくという方法です。いきなり労働市場をオープンにしないで、ある程度国境を通じて労働市場の国際的な流動化をコントロールしましょう
という政策が必要なわけです。アンチナショナリストを自認する高橋氏は「それによって閉ざされた国になっていくというのは、私の意識ではやっぱり抵抗があるんですね」というのですが、問題はまさに萱野氏が言うように
>社会が開かれることによって、逆に意識が閉じられてしまう
ということでしょう。リベサヨがソシウヨを産むというメカニズムが回り始めるわけです。
どこまでそれに自覚的であり得るか。
『POSSE』第2号@EU労働法政策雑記帳
右翼左翼と社会的なもの、国家、ナショナリズムなどについての濱口先生の一連の議論にはとても興味深いものがあり、常日頃から注目して読ませて頂いているわけですが、幾つか疑問もあります。せっかくですので、今回はそうした疑問をまとめてぶつけてみたいと思います。なお、本来はコメント欄で済ませられるようなことなのですが、既に幾分か日が過ぎてしまったこともあり、こちらでエントリを立ててお聞きする形にさせて頂きました。濱口先生におかれましては、ご理解の程を賜りたいと思います。
疑問は3点に分かれます。いずれもごく基本的な論点ですが、それゆえに重要であると思います。
(1)ナショナリズムが重要だと言う際、その主体となる国民(ネーション)とは誰なのか。国家が保護・配慮すべき範囲はどこからで、境界によって閉ざすべき範囲はどこまでなのか。
:周知の通り、憲法学においては、能動的主体の集合体としての「人民」と抽象的統一体としての「国民」が概念的に区別されます。思想的・理論的な議論をするならば、「国民主権」と言う場合の主権者も、ナショナリズムの担い手となる主体も、後者の「国民」であると考えるのが一般的です。しかし、この意味での抽象的「国民」は必ずしも国籍保持者に限定されるわけではなく、在住外国人なども含まれ得ることが知られています*1。国籍取得の要件も一様では有り得ませんが、国籍を持っている者だけが国民であると考えるべき必然性も無いとすれば、ナショナリズムを語る論者は常に、自らが想定する国民の範囲をある程度まで明らかにした上で議論を立てるべきでしょう。抽象的にナショナリズムを批判する振る舞いが愚かしいのと同様に、抽象的にナショナリズムを持ち上げてもどうしようもない――濱口先生がそれをしているとは思っていませんが――のであって、ナショナリズムの議論は常に特定の集団や具体的な文脈に結び付けて考えられるべきです*2。例えば在日コリアンなど二重の帰属を持つ人々は、濱口先生が構想するナショナリズムの内側に居るのでしょうか、それとも外側に居るのでしょうか。
(2)現代および将来において、ナショナリズムは(肯定的・否定的を問わず)それほど大きな機能を果たすことができるのか。ナショナリズムの主体となるべき国民の統合を保持ないし回復することはできるのか。できるとすれば、いかにしてか。
:この点は、ポストモダンへの突入による「ネーションの解体」と「ナショナリズムの不可能性」を提起した身として聞いておくべきだろう、といった程度のことで、無視されても構いません。ただ、(3)とも絡むことですが、現代におけるナショナリズムの動員がポピュリズム以外の形で為し得るのか、大きな懐疑を持つところではあります。
(3)ナショナリズムの危険性を自覚しつつも、穏当なナショナリズムを「活用」する必要があると言うが、そのような理想的な統御は、いかにして可能なのか。また、特定のナショナリズムが穏当(ないし「健全」)か否かは、誰がどのような基準によって判定するのか。
:通り一遍の批判と言われれば否定しませんが、やはりこの点を指摘しないわけにはいきません。「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」を分けられるとお考えになっているようには見えませんが、それでもナショナリズムの暴走を防ぎ、その肯定的な作用だけを抽出することが不可能ではないと認識されておられるなら、その認識について詳しくお聞きしたい。穏当な姿をしたナショナリズムの動員についての戦略と、力を得たナショナリズムを穏当なままに統御する手段を、どう考えておられるのか。穏当だと思われていたものがいつの間にかグロテスクな事態を引き起こすに至っている――「こんなはずではなかった」――といった例は、歴史の中に幾らでも見つけることができるはずですので。
以上、濱口先生に向ける形で書きましたが、これらの疑問は萱野稔人の所論にも共通して抱いているものです。高橋哲哉の主張に比して萱野の認識が説得的であることについて異論はありませんが、それでも萱野の主張に賛同することができるかと言えば、私にはそれは無理です*3。それは私が政治=線引き問題が不可避であることを認めつつもナショナリズムには全く期待していないためですが、他方では萱野の主張に不明朗な点があることも無関係ではなかろうと思います。そういったわけで、萱野の主張に肯定的に言及しておられ、ご自身でもナショナリズムの必要性を説いておられる濱口先生に一層詳しい説明を頂ければ、私の理解も深まって考えも変わるかもしれないと思い、疑問を書き連ねてみました。濱口先生以外の方からでも、ご教示を歓迎致します。
*1:観念的には、無限に広がり得ます。「法外なものごとについて」など参照。
*2:国民の範囲の問題からは離れますが、例えば濱口先生や萱野は、国際的な所得格差、経済格差についてはどう考えるのか。国内の格差問題が大変な時にODAでもないだろうという主張に賛同するのか、反対するのか。ODAなど他国への援助が必要だと考えるなら、その判断には、戦略的観点からの必要性と人道的観点からの必要性のどちらが重きをなしているのか。そういう議論こそが聞きたいと思います。
*3:東浩紀と同様、私は「方法としてのナショナリズム」(中島岳志)に反対なのです。