「少女マンガ的つまらなさ」との対決としての東村作品
「ユリイカ 詩と批評」2017年3月の臨時増刊号の東村アキコ特集に「『雪花の虎』のカッコよさはどうやって成り立っているのか」という一文を寄せました。
『雪花の虎』を「宝塚」と関連して論じるのは同号の中で吉村麗がやっていて、『雪花の虎』は他にも鷲谷花などが論じています。ぼくは、別の角度から議論しました。*1
ぼくの『雪花の虎』論は、「小学生女子を対象にしている『ちゃお』に連載されている少女マンガの少なからぬ部分は、なぜあれほどまでに(ぼくにとって)つまらないのか」という問題意識から出発しています。
そのことは、ぼくの論考の冒頭に書いたし、結論部分でも書いています。
へ!? 「ちゃお」!?
……と思うかもしれません。「ちゃお」って、小学生女子が読む少女マンガ雑誌でしょ? 東村アキコと全然関係ないやん、と。
が、ぼくの問題意識はこうです。
東村アキコの作品とは、「ちゃお」に見られるような「少女マンガ的つまらなさ」との対決にあるのではないのか、と。
「少女マンガ的つまらなさ」の批判者としての東村アキコ。
実は、「ユリイカ」の同じ特集の中で岩下朋世が「パロディと思うなかれ――東村マンガに『少女マンガ性』は見出せるか」という考察を書いており、「少女マンガ的定番との真っ向勝負」という節を設けています。
読んで見て、ぼくの問題意識と重なる部分がある、と思いました。
「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」
ぼくは自分の一文の最後で、東村が『ひまわりっ』という自伝的要素をからめた作品の中で「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」という劇中劇ならぬ「マンガ中マンガ」を使って、女性マンガ家のありがちな傾向を揶揄=批判しているのを紹介しました。
東村は、少女マンガの中にある無根拠な「美しさ」「カッコよさ」と対決し、堅牢な条件を積み上げて、時にはそれを「笑い」によって批評し、時にはロジカルに「美しさ」「カッコよさ」を示そうとします。
東村は、ギャグ=笑いを導入する中で(『きせかえユカちゃん』で飛躍的に取り入れられるようになった)、格段にこのロジカルさが増していきました。
それは、ギャグとは、対象の客観視であり、批評性の発露だからです。
東村が「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」で批判対象としていたのは、おそらく東村が活躍していた「ヤングユー」や「クッキー」で頻繁に掲載されていたものが想定されているのでしょう。
「ヤングユー」や「クッキー」は、「ちゃお」的な少女マンガから、オトナのマンガである「ユー」などへの過渡として存在していましたが、少女マンガの中にある「無根拠性」がむき出しになった作品(ぼくが論考の中で言った「雰囲気だけで描いちゃうマンガ」)と、論理性が堅固なオトナの作品が混在しており、東村はその一方の雄であり、他方への批判者でもありました。
ぼくが東村アキコの作品を初めて観たのは、「ヤングユー」誌での「のまれちまうぜシュガウェーブ」という短編でした。
ぼくのその時(2003年)の感想が、ホームページ上に残っています。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou.html#nomare
エッセイコミック的絵柄
この作品を読んだ時、まず絵柄に惹きつけられました(下図*2)。
ちょうどその頃「ヤングユー」に移ってきた羽海野チカ『ハチミツとクローバー』に抱いたワクワク感を、内容やセリフとは別に、絵柄そのものから、持ったのです。
あまりうまく表現できませんが、
- 少年誌的なもの。
- ギャグが入り込んでいるんじゃないか。
- リリカルではなくリアルな真情が出ているっぽさ。
ということを予感させてくれる絵柄なのです。
「エッセイコミック的」と言ってもいいでしょう。
女性作家の中での「物語作品」と「エッセイ作品」の出来の良さの差はなんなんだ
ぼくは(当時のぼくにとっての)女性マンガ家の一つの傾向として、作品ではかなり叙情的な絵柄を使うのに、エッセイコミックでは全く違う、上記のような絵柄を使うことへの違和感を抱いていました。
絵柄が違うことそのものではありません。叙情的な絵柄の「本体の作品」の方は、「ふわっ」としていて「雰囲気だけ」で描かれていてつまらないのに、エッセイコミックの方は無性に面白い。なんで本体の方の作品もエッセイコミックみたいに面白くできなのかなあと。ふわふわした無根拠なものをなんで書いちゃうんだという苛立ち。
例えば、高橋由佳利は『トルコで私も考えた』というエッセイコミックがものすごく楽しみで、そこで高橋の物語系のフィクション作品もいくつか読んだのですが、少なくともぼくにはピンときませんでした。
初期のかわかみじゅんこなどもそうです。
かわかみが登場して来たとき、世間で絶賛されていた『ワレワレハ』や『銀河ガールパンダボーイ』にぼくはあまり馴染めずに、そのまま忘れていたのですが、パリ暮らしを綴った『パリパリ伝説』に出会って熱狂しました。『パリパリ伝説』を経た後で発表されている物語作品であるところの『日曜日はマルシェでボンボン』や『中学聖日記』は、エッセイコミック的な諧謔が随所に生きています。
このような「エッセイコミック的なもの」という絵柄を装備した東村は、登場からすでに(ぼくのなかで)アドバンテージを持っていました。
ただ、最初は東村自身が苦戦していたとぼくは思います。
つまり「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」は東村自身の反省ではないのか、少なくとも自分の中にその要素があったのではないか、という自戒・自虐を込めているのではないでしょうか。
東村の初期作品『白い約束』に、ぼくは不満があります。
これも、ぼくのホームページに当時(2004年)の感想が残っているので、紹介しましょう。
この漫画については、ある種の楽しみがあった。なぜかこの前、ぼくが同級生の女性2名と旅行先の電車に5時間閉じ込められ、退屈した女性二人が、ぼくが偶然持っていたこの漫画を読んだからだ(買ったばかりだった)。二人の感想は「だから何なのよ、というかんじ」「あんまり面白くない」であった。
ぼくはその時点でこの東村の短編集を読んでいなかったので、『きせかえユカちゃん』を描いた東村はいったいどういう短編を描いているのか、家に帰って読むのが楽しみだったからである。もしぼくが面白いと感ずれば、女性二人との感性の違いは決定的となる。結果は、この女性二人の勝利といってよい。えーと、そこそこに面白いとはおもうけど、「だから何なのよ」と確かに言いたくなる。あれほどオトナのギャグが描け、「ヤングユー」で味のある短編を描いているくせに、この『白い約束』は、まるきし『ラブ☆コン』『ハツカレ』並のお子ちゃま度である。
3つの短編に出てくるオトコが3人とも似た感じで(いや、東村はどの作品にもこのタイプのオトコが出てくる。よほど萌え萌えなのであろう)、3人とも魅力に欠ける。主人公となっている女性のイキのよさを殺している。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou0407.html#shiroi
同級生どもに、「これが東村という漫画家か」と思われたのがくやしい。いや、別に東村に義理はないけど。
ギャグが担保する客観性
東村はぼくの中では「ギャグの人」です(羽海野チカもぼくの中では長い間そういうポジションでした)。対象を冷徹に客観視して笑いものにする批評性は、『ママはテンパリスト』のようなエッセイコミックで本領を発揮しますが、そこから派生して『東京タラレバ娘』『海月姫』『ひまわりっ』のような物語フィクションにも生かされます。
逆に言えば、ギャグとは別に、陶酔感が入り込む「カッコよさ」「叙情」「懐古」のようなものを扱うときは、危険さがつきまといます。
つまり、下手をするとギャグやロジックのような客観性を担保する武器が封じられて「ちゃお」的少女マンガのような「雰囲気だけで書いたもの」、陶酔感全開のものになってしまう恐れがあります。
この点で、『かくかくしかじか』と『雪花の虎』は本来危うい要素を含んでいます。「先生との涙のエピソード」や「宝塚みたいにカッコいい謙信」というところに流れかねないからです。しかし、その危うさを乗り切って、この2作品は傑作に仕上がっています。
そこをどうやって、ロジカルに支えているのか、ということをぼくの稿では書いたつもりでいます。まあ、成功しているかどうかは、読んだ人にお任せします。
「女性性の批評と追求」には成功していない『雪花の虎』
なお、その論考でも書きましたが、謙信が女性であること、女性が男性化するのではなく、女性のまま、その人のままで輝きうる、というテーマについては『雪花の虎』は成功しているとは思えません(ただしそれはこの作品の魅力を減じるものではありません)。
そのテーマは、本来は論理的に追求されねばならないものですが、そこはあまりうまくいっていないのです。
そのことが論理的に追求されるには、男性性や女性性に対する客観的な批評が必要で、東村の最大の武器がここでもギャグだと思います。
しかし、謙信が生きた時代の男性性・女性性への批評は相当に難しい。
東村が得意とするのは、『東京タラレバ娘』に見られるような、今生きて動いているアラサーたちの生態を観察し、批評すること、すなわち「ほじくり出して笑うこと」です。この現実の生々しさから離れている「歴史もの」の中では、今のところ、東村が武器は封じられたままです。
これを全く新しい形で示すのか、それともそこは未開花のままで終わるか、どちらになるかは、今後にかかっています。