上野千鶴子「女ぎらい ニッポンのミソジニー」(2)
「世界一「考えさせられる」入試問題」という本が最近文庫化された。オックスフォードとケンブリッジの入学試験での面接問題を紹介し、著者が回答例を付したもので、そこに「フェミニズムは死にましたか?」というケンブリッジ大学古典学での問題も紹介されている。よくこのような地雷を踏むような問題を出せるものだと思うが、別に正解があるわけではなく、当意即妙に論理的かつ根拠をもった解答をすればいいらしい。
ここでの著者の解答例は穏当かつ微温的なものだと思うが、「この言葉(フェミニズム)は1880年代にフランスで生まれ、イギリスには1890年代に女性の権利を求める女性たちを揶揄する言葉として導入された」というような歴史的展望が示され、しかしこれが広く女性運動を指すようになったのは1960・70年代であり、いわゆる「ウーマン・リブ」の運動の過激あるいは行き過ぎによって、この言葉は否定的な意味合いも帯びることになった。それで1998年の「タイム」誌に「フェミニズムは死んだか?」という有名な質問がでることになったが、これは女性運動一般が死んだか?という意味ではなく、1960・70年代のフェミニズムは今でも有効であるかという問いであったのだという。
女性参政権運動のように、それが達成されれば使命を終える運動もある。60・70年代の運動も90年代にはその掲げた目的の多くが達成された。そのことが「フェミニズムは死んだか?」という問いがでてきた背景だったのだ、と回答例には書かれている。その後、女性たちは「女の子パワー」を楽しむようになった。最近の報告では、多くの女性たちがフェミニズムを拒絶しはじめているとされ、それはフェミニズムの中核をなす価値観に女性たちが疑問を抱くようになったからだという。
この前の(1)で紹介した「ウーマン・リブ運動は超観念論的である」という丸谷才一氏の揶揄はおそらく1960・70年代の運動、男こそが諸悪の根源であり、戦争も暴力もすべて男がもたらす厄災であり、この世が女性の支配する世界になれば、すべての不幸が地上から消えるであろう(とここまで極端ではないかもしれないが)といった方向をからかったものだったのだと思う。そして男性からフェミニズムの問題をみる場合、大きな声ではいわれないかもしれないが、ウーマン・リブやフェミニズムの運動というのは不美人たちのしている運動に違いないという抜きがたい偏見がそこに伏流しているように思う。丸谷氏の論も「今度、一度運動の集会を見にいってみよう。少しは美人もいるかもしれない」といった結びになっていたように記憶している。女たちは自分たちを能力でみてほしいと言っているのに、男たちは美人か不美人かという視点からしか女をみない、それが許せないというのがフェミニズムの起点にあるものだという思い込みが男の側には抜きがたくあって、フェミニズムの運動が不美人の失地回復運動のように見えてしまうのである。「わたしを容姿だけで評価しないで、もっとわたくしという人間全体をみて!」
これもまた(1)で紹介した三島由紀夫の「第一の性」で、女性は自分に対する賛辞を決して素直に賛辞であるとは受け取らず、その賛辞の頭に「美人ではないけれど」をつけて受け取ることをするとある。「あなたは頭がいいわね。(美人ではないけれど)」 では美人であればいいのかといえば、「あなたとてもお綺麗ね。(頭は空っぽだけど)」ということになるらしいから、とにかく難しいわけである。
「男流文学論」で、小倉千加子さんが「関西でいったら甲南を出て、あるいは神戸女学院を出て、そしてこういう(谷崎松子のような)優雅な生活を送っている人」ということをいって「私は向こうの方が賢くて私はアホな生き方をしていると思っている」という。ここが問題なのだと思う。フェミニズムというのはたまたま女性に生まれるということがたまたま男性に生まれるのより絶対的に不利であるという前提が出発点になっているのだと思うのだが、女性に生まれたことも悪くない、女の子であることを利用しよう楽しもうという方向もでてきているということである。「女の子パワー」である。上野さんはそれに否定的なのだが。
本書「女ぎらい」第3章は「性の二重基準と女の分断支配―「聖女」と「娼婦」という他者化」と題されていて本書の理論的背景を述べた章なのであると思うが、なんとも観念的である。「二重基準」「分断支配」「他者化」などこなれていない言葉ばかりである。たとえば、ここではサイードの「オリエンタリズム」が援用され、男が西洋、女が東洋といった類比が展開されていく。そしてオリエントの女としてプッチーニの「蝶々夫人」が例示される。「西洋の男」に都合のいい「東洋の女」の物語である、と。プッチーニは家庭生活に悩まされた人で、おそらくヴィクトリア朝道徳の偽善にふりまわされたひとだろうと思うので、「蝶々夫人」という夢物語に惹かれるところがあったのであろう。そもそも、オペラの筋などというのは荒唐無稽なものと決まっているのであるから(例えば、「トゥーランドット」におけるカラフのトゥーランドット姫への一目ぼれ、そしてリューという都合のいい女・・)、男というのはこういう夢をみるものなのか、哀れなものだなあ、と思って大所高所から見物をしていればいいのに、上野氏は「蝶々夫人」を見るたびにむかついて、気分よく見ていられないのだそうである。なんだか心が狭いような気がする。
さて、本章には「人種」も歴史的な構築物であると書かれ、「人種」という概念は帝国主義の世界支配のイデオロギーと共に誕生したとされる。しかし、われわれには同胞と余所者を区別する仕組みが長い狩猟採集生活の中で生得的に備わっているのであるから(農耕の生活に入って以降の人類の時間はその影響が遺伝的に固定されるにはまだ不十分であるとするのが常識的な生物学的見解であろう)、「人種」というものがかりに歴史的構築物であるとしても、そういう歴史的構築物をつねに必要とする志向というものがヒトには備わっているということを無視すると議論が平版になってしまうと思う。
だから、ジェンダーという概念が歴史的構築物であるとしても、セックスの方は生物学的なものであり、男と女でそもそも染色体構成が違い、ホルモンが違い、そのホルモンの違いが胎生期の脳の形成に決定的な影響をあたえるのであるから、生物学的に男女には決定的な違いがあって当然なのであるが、どうもそのような点はほとんど視野にはいってきていないようにみえる。
「男が男として性的に主体化するために、女性への蔑視がアイデンティティの核に埋め込まれている―それがミソジニーだ」というのが上野氏の定義なのであるが、何だか頭でっかちで、普通に読んでもなかなか理解できない言葉である。「男が自信をなくした時、それでも自分は女よりはましなのだと思って自分をなぐさめる」というような意味合いかと思うが、しかしと上野氏はいう。そういう男でも母から生まれたという事実はある、と。だから、それを救うための女性崇拝という側面もミソジニーにはあるのだ、と。そこから性の二重基準(男と女で性道徳が異なること)が生じることがいわれ、「聖女」と「娼婦」、「妻と母」と「売女」、「結婚相手」と「遊び相手」、「地女」と「遊女」といったように女性が二種類にわけられることになることがいわれるのだが、しかし、男がそのようであることについては、かなり強固な生物学的な基盤があることは、「利己的な遺伝子」をわざわざ繙くまでもなく、人間を進化の観点から論じた本にはどこにでも縷々書かれているところであると思うのだが、それらは無視されている。
人類が一応一夫一婦制をとってきながら、実態としては男が娼婦あるいは婚外の異性の存在を必要としてきたことの背景には上記の生物学的基盤があることは間違いない。男性同性愛の場合にはパートナーとは一期一会なのだそうであるが、女性同性愛の場合にはきわめて強固なパートナー形成になるのが普通だそうである。「分割して統治」しようとしてそのような二重基準を男が作ってきたというのはあまりに理論倒れしている、あるいは被害妄想が生んだ論であると思う。
男がしていることを女にもさせよ!というがフェミニズムの基礎であるとすれば、女性が解放されれば、女性もまた「結婚相手」と「遊び相手」の双方をもつことが望ましいことになるのだろうか? おそらく行き着く先は「結婚相手」が消滅してすべてが「遊び相手」になることが望ましいという世界であろう。
上野氏の理想とするところは一夫一婦制の堅持の方向ではなく、まともな大人同士の自由な交流という世界なのではないかと思う。18世紀フランスのサロンのような世界かもしれない。しかし、ここに男女の絶対的な非対称性が出てきて、それは妊娠出産は今のところは女性にしかできないということで、少なくとも妊娠の時期には女性に圧倒的な身体的負荷がかかり、子育てにも大きな負担がかかるということである。
どうも上野氏が攻撃している男性というのはあまり上等でない部類に属する男ばかりであるような気がする。男にも女にも上等な人とそうでない人がいるなどといってしまえば、あまりにも身も蓋もない話になってしまうが、上野氏が口をきわめて罵っている吉行淳之介も男であるわたくしにはなかなか上等な人間にみえるというあたりに、おそらく問題が潜んでいるような気がする。
前の(1)で紹介した三島由紀夫の「第一の性」で、三島は男性の特性はデリカシイであるといっている。これを訳すと「思いやり」あるいは「見て見ぬふり」になるのだと。わたくしは吉行の文学というのは人間関係へのデリカシイをひたすら描いたものであると思っているので、吉行がそんなにダメな人間であるとは思えないのである。上野氏が激しく非難する吉行のミソジニーというのは、女性がそのデリカシイの欠如の故に自分の内面にずかずかと踏み込んでくることへの拒否ということなのだと思う。この自分の内面に他者が入り込んでくることの拒否という姿勢はまた三島にも強くあって、そのことを橋本治は「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」で「塔の中の王子様」として強く批判している。三島にとって他者とは自分の絶対性を脅かしに来るものであったのだが、それは三島が自分の絶対性を信じる近代的な知性の持ち主だったからなのだと橋本治はいう。一部引用する。「男にとっての「他者」とは、別に「女」だけではない。それ以前、「自分以外の男」はすべて「他者」である。「他者」によって自分が脅かされる―それは最大の危機である」 この議論のほうがずっと射程が長いと思う。要するに、吉行は別に「女嫌い」なのではなく、自分のなかにずかずかと踏み込んでくるような無神経な他者が嫌いなのである。そして女性がたまたまデリカシイの欠如によって自分の内面に踏み込んでくることが男性の場合より多い、という理由で「女嫌い」に見える、というだけのことなのである。要するに吉行も三島も人間嫌いであったという身も蓋もない話になってしまうのかもしれないのだが、それゆえに橋本治はいう。「女達の声が生まれる―どうして他者と向き合えない? どうして他者を愛せない?」 何で自分だけを愛しているのだ! もっと他者に目を開け! 上野氏もいう。「どうして女と向き合えない! どうして女を愛せない!」 しかし、それができない理由は男性が女性を支配しようとするためではなく、男性が女性よりもずっと弱い性であるからというのが三島由紀夫たちのいいたいことなのではないかと思う。
バロン=コーエンによれば、共感する能力は平均して女性のほうが男性よりも優れている。それに対し男性の脳は論理化する能力において平均して女性よりも優れている。そうであれば、デリカシイ(≒共感能力)が欠如しているからという理由で男が女を嫌うというのは理論にあわない。しかし三島由紀夫はたとえばこんなことをいう。「男が女より強いのは、腕力と知性だけで・・、その知性というのも、もともと男が感情の弱さをカバーして、女に負けないようにと発明した一種のルールにすぎない・・。男心と来た日には、正に、「複雑微妙、感じ易く、傷つき易く、ガラス細工のように高尚な芸術品・・(だから)男のデリカシイは、(それを防御するための)一種の社会的訓練の結果と言えます。」 そしてある女性同士の会話を示して、「ここにはデリカシイというものがみじんもありません」という。だが、デリカシイが社会的訓練の結果男性が後天的に獲得したものというのはバロン=コーエンの生得説と対立することになる。
まとめてみる。男性は生得的に論理的であり、一方女性は生得的に共感能力にすぐれる傾向を持つ。また進化論的必然から男性は多婚的であり、女性は単婚的である。しかし、ここからは男性が傷つきやすい性であるとか、それにくらべて女性はタフで打たれ強い性であるといったことは導出されてこない。そこでもう一つ、男性は自己批評的な性であり、女性は他者批評的な性であるという補助線を導入してみる。これを少し延長すると、男性は自己否定的な性であり、女性は自己肯定的な性であるという命題も導出されてくる。つまり男性は自分を好きになれず、一方、女性は自分が好きであるということになる。吉行淳之介や三島由紀夫の人間嫌い(≒女嫌い)はここからでてくる。だから男性がそれでも自己を肯定できるようになるために多大な努力を払うことが要請されることになる。一方、女性は何もせずにいても自己を肯定できる存在であるということになる。だが、これは上野氏が書で描く男性像・女性像とは大きくことなる(正反対?)の像であるのかもしれない。
上野氏は女性のなかでは際立って論理化能力に優れたひとなのだと思う。それにもかかわらず論理化能力での競争において、対等なリングにはたたせてもらえず、女性であるということの故につねにハンディキャップを負って闘うことを強いられてきた、そのことへの怨嗟が氏の行動にパワーを与えてきたのであろうと思う。一般的にフェミニズムの運動は男性と平等な場で競えることを目指すものである。
ここで、論理と共感以外にもう一つの因子を導入してみることにする。客観性ということである。それは自分をも客観的に見る能力をふくみ、それゆえに自分を笑うことのできる能力でもあり、ユーモアとも通じる何かである。この能力は相対的にみると男性のほうに女性よりは多く配分されていると仮定する。この仮説が正しいとすると、男性は女性にくらべ自分を信じることができにくい性であるということになる。
デリカシイを共感と結びつけると話がうまく展開しないのだが、デリカシイが自己批評・客観性と結びつくのであれば、それが相対的に男性に多くみられるとすることを説明できるのかもしれない。ここから女性がタフで、男性が傷つきやすいとする説がでてくることも導出できるのかもしれない。
自分が信じられる性と信じられない性が相対したら、自分が信じられる性のほうが強いに決まっている。吉行淳之介が「春夏秋冬 女は怖い」というのはそのことであるのだろうとわたくしは思う。
「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」で橋本治は、三島の最大の禁忌は「安全な場所にいる私を脅かしに来る者があってはならない」であり、「恋によって自分の絶対が脅かされること」であったという。なぜそのようなことになるか、それは三島が「自分の絶対性を信じる近代的な知性」の持ち主だったからだという。女だけではなく、自分以外の男もすべて他者である。その他者にむかって歩き出すことができない。なせか、認識者である三島が自分の正しさに欲情しているからだという。
三島が信じたのは知性であったかもしれないが、吉行の場合はそれとは違う皮膚感覚といったものであったかもしれない。吉行の場合もそれは絶対であって、それを基準に他を裁く。そして自分の皮膚感覚に違和を生じさせるものを排除し、拒絶する。
「男流文学論」で富岡多恵子が「三島が死んだのは結婚がいやだったから」という説を披露している。「要するに、たかをくくっていたわけよ。結婚ぐらいできる、と・・・だけど、やってみたら、そうはいきませんよ。…結婚はやっぱりそんなになめたものじゃない。彼はなめてかかっていたのと違いますか」 上野千鶴子は口をとんがらせて「結婚なんて女を殺さないと同じように男も殺さないですよ。」と反論しているが・・。小倉千加子がおちょくって、「上野さんは女三島由紀夫なんですよ。」といっている。三島は、自分は相手が全部理解できるが、相手は自分のことは一切理解できないという関係が可能であると信じて結婚したが、結婚してみて、そうは問屋がおろさなかったという話なのだと思う。上野氏は「貴族的な結婚というのは、愛情の交流などはなから期待しないのではありませんか?」といっていて、ここらに氏の本音があるのではないかと思うが、「どうして女と向き合えない! どうして女を愛せない!」などというのはフェミニストの建前ではあっても本音ではなく、貴族主義的なサロンでのその場限りの淡い交流といったほうがずっと上野氏の理想に近いのではないかと思う。
「鏡子の家」の清一郎が問題なのだと思う。「鏡子の家」を執筆した当時の三島の想定していた生き方というのがそこに描かれているはずである。しかし、「鏡子の家」が発表当時不評であったのは、そこに描かれた生き方があまりに子供っぽいと読者には感じられたたためではないかと思う。「金閣寺」流の華麗なレトリックをとりさってみると、三島の小説で描かれているものは案外と凡庸で底の浅いペシミズムあるいはニヒリズムのように見えてしまうということである。
近世のひとである橋本治は近代のひとである三島由紀夫や吉行淳之介の抱える病弊を糾弾できるしっかりした物差しをもっている。しかし、上野氏は近代の人であって、氏がミソジニーとして糾弾するものも近代の産物なのであるから、それを切ろうとすると刃は自分のほうにも向かってくることになるのではないかと思う。
ものごとを最低の鞍部で乗り越えてはならないといった言い方がある。あるひと(もの)を批判しようとするならば、そのひとのつまらない欠点などをあげつらってはならず、そのひとのもつ最高の美点において批判しなくてはいけないといった意味なのだろうと思う。どうも上野氏の三島批判や吉行批判は最低の鞍部でそれを越えようとしているように見える。
わたくしがなぜ吉行や三島にこだわるのかといえば、わたくしの大学1〜2年のときの神輿が吉行や三島だったからで(高校のときは太宰治)、どうも吉行や三島への批判が他人事とは思えないからなのだと思う。一浪してなんとか大学に潜り込んで、やれやれこれでもう勉強しなくてもすむなどと思って、まただらだらと小説などを読むようになったのだが、最初にいきあたったのが吉行で、ちょうど吉行がマンの「トニオ・クレーゲル」や萩原朔太郎をみつけて救われたと思ったのとちょうど同じことが、自分には吉行によっておこったのだと思う。要するに自分と同じような感受性を持つ人間をみつけたといった感じである。しかし吉行ほど強い人間ではないわたくしは、どうも吉行路線一本でいけるかなという不安もあったようで、それでいろいろと読んでいくうちに、吉本隆明経由で福田恆存にいきあたったことについては、ここで何回か書いていると思う。もっともその当時の福田理解はかなり吉行にひきつけたもので、福田=ロレンスの「山に入って、道を説くな。そうすれば涅槃にはいれるであろう」というのも吉行路線だと思っていた。多分、D・H・ロレンスも上野氏からはミソジニーの人ということになるのではないかと思う。その数年後にでた庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」をも福田恆存路線を喧伝する本である思っていたのだから、わたくしの読みは随分と偏っていたのであろうと思う。吉行をぐだぐだと読んでいて、やはりこれより福田恆存路線かな?などを思っているうちに、東大闘争というか東大紛争というかの渦中に巻き込まれることになり、福田恆存の属した「鉢の木会」のつながりで三島由紀夫や吉田健一を読むことになり、三島がああいう死に方をしたので健一路線一筋でいくことにしたということについても何回か書いていると思う。そしてわたくしが愛読してきた著者のほとんどが上野氏からはミソロジーのひとといわれるので、口を尖がらせてグダグダとあれこれ書いているのだと思う。
それでは吉田健一もまたミソロジーのひとかといえば、この人そもそも女にあまり興味がなかったひとなのではないかと思う。だから自分なりに女を描こうとしたのであろう「本当のような話」は随分と無理をしているというかつくりものめいた感じをあたえる。それゆえ、吉田健一の描く女はみな男性の同類の嫌疑があり、鎧兜をまとっているようでウッカリ手も握れまい、などと石川淳にからかわれることにもなる。
人類の歴史において、そのほとんどは人間=男であったわけで、いまだにそれは大きくかわってはいないのかもしれない。だいぶ以前、おそらくわたくしが22〜23歳のころ、NHKの教育テレビの成人の日の特集か何かで「大人になるとはどういうことか」といったテーマで討論会のようなものをやっていたのをみたことがある。福田恆存とか庄司薫とかもでていたので見たように記憶しているが、そこで喧々諤々、大人になるとはという議論が続いて、かなり終わりに近づいたころ、ある女性の参加者が、「何だか議論が、男性が大人になるという方向ばかりで、女性が大人になることについての議論が足りないような気がするのですが」といったことをいって、それをきいて男の参加者達が「ああ、そうだ、この世には女というものもいたのだ!」とはじめて気がついたような本当にびっくりしたような顔をしていたのをいまだに鮮明に覚えている。フェミニストたちの憤怒を思うべし!
この「女ぎらい」に文庫版増補として「諸君! 晩節を汚さないように―セクハラの何が問題か?」という30ページ長の結構長い、最近の「#MeToo」運動などをからめた文章が収載されている。ここでいわれるのはセクハラが生物学的なセックスの問題ではなく、社会的に構築されたジェンダーの問題であるということである。男が自分が優位な性であることを確認するための行為であるというのである。これまた随分と理屈っぽい文章であるが、わたくしからみるとセクハラをするようなひとは社会的地位とは関係なく人間としてあまり上等ではないということにつきるのではないかと思う。人間として上等でないひとはたくさんいるから、そういうひとが社会的地位をえるとセクハラをする。要するに、今、男性が権力を握っているからセクハラをするのが男性の側であるが、もしも女性が権力を握るようになれば、女性にも人間としてあまり上等でないひとはたくさんいるから、女性だってある割合セクハラをする人間がでてくるに違いない。それではこれは、女が自分が劣位な性ではないことを確認するための行為ということになるのだろうか?
男はポルノを読む。それなら女でこれに相当するものはおそらくハーレクイン・ロマンスのようなものであり、最近はそれのポルノ版のようなものもでてきているらしい。ポルノは大人の童話であるといわれる。ハーレクイン・ロマンスもまた大人の童話なのであろう。
男であるわたくしの偏見であるかもしれないとも思うが、ポルノにはどこか含羞のようなものがあると思う。「こんなことに熱中しちゃって、へへへ、お恥ずかしい」といった感じである。含羞というのは自己批評の産物である。一方、最近の女流作家の書く小説の一部には女性の感じている性感というのがいかにすばらしいものであるかということをただただ書きたいのではないかと思うものがあって、そこには含羞といったものは微塵も感じられない。
伊丹十三の「女たちよ! 男たちよ! 子供たちよ!」の巻頭に「性感論的女性論」という村上節子との対談が収載されている。そこで村上氏は「性は女が神と交合するための儀式で、男はその儀式の道具になって生を燃焼しつくす」などということを言って、それに対し伊丹氏は「どうも、とてもついてゆけない話ね、それは、なんで神が出てくるのかね、・・・どうも女の人というのは肉体、あるいは生理について過大な意味づけをしたがるようなんだけど、そういう思い込みは一種の性の神秘化であって、むしろ性差別の産物なんじゃないかね」と答えている。この対談でめだつのは伊丹氏が「なんだか馬鹿な話してるね、どうも(笑)」といった自己批評あるいは韜晦のようなものをつねにもっていうのに対し、村上氏が一貫して真剣であるということである。ここでも伊丹氏は「男であることの一つの証明としてのセックス」という上野氏と同様の視点をとっているし、「おそらく、女のほうが男を人間としてちゃんと見てるんでしょうね」ということもいっている。また女性の「対人関係における感度の良さ」ということもいっている(これを伊丹氏は生物学的な脳の構造によるものではなく、性差別の社会が生み出したものとしているが)。
もしも男が女よりいくらかでも優れていることがあるとすれば、男の自己批評性というか自己を客観的にみる視線のようなものだけではないかと思うのだが(ユーモアというのはそこから生じるのだと思う。ユーモアは男性のものであるといえば女性から怒られるだろうか?)、そういう良さというものを上野氏の議論は根扱ぎにしてブルドーザーで一気に消し去ってしまう、いささかデリカシイに欠ける行き方になってしまっているのでないかと思う。それは吉行や三島の文学を最低の鞍部でこえてしまうことで、あまり実りのあるものとはならない非生産的なもののように思えるのである。
「フェミニズム」は死んだのだろうか? 最近の上野氏はもっぱら介護の専門家であって、フェミニズムの陣営の一部からはわれわれの戦線から逃亡したといった批判もでているらしい。上野氏はきわめて明晰なひとであるから、フェミニズム運動の場の生産性がめっきりと低下してきていることは感じているだろうと思う。
巻末のセクハラを論じた文で、大学におけるセクハラ問題が表にでた嚆矢として京大矢野暢教授事件(1993年)がとりあげられている。矢野氏の本は何冊か面白く読んでいたので、この報道があった時は意外に感じたものだった。現在も社会学者として大いに活躍されているO元京都大学教授もセクハラで退職したという噂をきく。知的能力があるひとが人間として上等であるとは限らないのである。別に京大にそういう人間が多いということではなくて、本書によれば、東大でも「出るわ、出るわ」だということである。この京大の2例はたまたま文系であるが、東大の場合には「文系より理系」なのだそうである。大学の出世競争で偉くなるひとが人間として立派であるとは限らないことは、少しでもそこにいたことのある人間であれば誰でも知っていることであろう。それで、上野氏は東大でのセクハラ撲滅のために大いに頑張っているらしい。上野氏はセクハラは女性蔑視と男としてのアイデンティティの確認が核心にあるというが、セクハラをする偉いさんというのは別に女性だけでなく、自分の下の男性だって蔑視しているに違いない。
男としてのアイデンティティの確認ということについていえば、伊丹氏は「数の人」ということをいっていて、「数の人」はセックスをやらないと鼻血がでるというようなことではなく、自分の男らしさの証明がすんでない人が、自分で自分の男らしさを納得するための手立てなのだといっている。上野氏の論と伊丹氏の説は一見すると同じことをいっているようにみえるが、上野氏によれば男性性の根源からそれは発生するとされているのに対し、伊丹氏の場合は男性が成熟すればそれは克服されるものとみなされているようである。もっとも両氏ともに広い意味での精神分析学的な見方を採用しているという点で通底するものがあると思われる。
伊丹十三は「男たちはみんな男らしくあらねばならぬ」と思っているというし、三島由紀夫も男は「何くそ! 何くそ!」と人の笑い者になるまいとして歯をくいしばって生きてきているという。どうもここらへんがわからないところで、わたくしなどははじめから競争から降りているというか、社会の中でどこかに自分の居場所さえあればいいと思っていて、ひとを押しのけてなどという気持ちが欠けているように思う。男らしさが足りないのであろう。
吉行淳之介は「戦中少数派の発言」で、昭和十六年十二月八日、真珠湾の戦果に歓声をあげる当時中学五年生の同級生のなかで、一人そこから孤立していた自分を回想している。吉行氏はそれを生理とか心の肌の具合とかいっているわけであるが、わたくしも自分に何か男として足りないものがあるように思っていて、競争原理からはじめからおりてしまっているところがあると感じている。わたくしは大学にはいって吉行氏が「トニオ・クレーゲル」や萩原朔太郎に発見したようなものを吉行氏の初期の創作に発見したわけで、どうも上野氏が「女ぎらい」の代表例として吉行淳之介を挙げるのをみると、理屈以前に生理的に反発するものがあることを感じる。そういうことがあってここでは必要以上に上野氏に厳しいことを書いてしまったかもしれないが、わたくしは吉行氏はセクハラをするようなひとの対極にいるひとであると思うので、どうにも本書でいわれていることに納得できないものが残ってしまうという感じを禁じえないのである。たぶん、繊細さが足りないと感じるのであろう。何だか上野氏の論がブルドーザーで地ならしをしているように見えてしまうのである。もう少し惻隠の情のようなものがあってもいいのではないだろうか。武士は相見互い、というのも男世界でしか通用しない言葉なのであろうか。

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