高御座
高御座(たかみくら)は、日本の天皇の玉座[1]。皇位を象徴する[2] 調度品で、歴史的で伝統的な皇位継承儀式の即位の礼において用いられ、皇位と密接に結びついている[3]。現在の高御座は、皇后の御座所たる御帳台とともに京都府京都市の京都御所紫宸殿に常設されている。
概要
[編集]平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された。
平安時代にあっては、天皇着座の際、摂関家の藤原兼家が近侍していたとの記載が史書にみられるものの、即位式の際には摂関は高御座後方の北廂東幔内にて控えるのが例であり、天皇に御笏を献じる一時を除けば高御座に足を踏み入れることはなかった[4]。しかし、院政成立後の堀河天皇即位の際には摂政の藤原師実が、鳥羽天皇即位の際にはやはり摂政藤原忠実が高御座の中層にまで登っており、以後、摂政職にある者が高御座に登壇するしきたりとなった。遅くとも鎌倉時代の後期には高御座に着座した新帝に摂政が印明を授ける即位灌頂がおこなわれるようになった[5]。
現在の高御座は、大正天皇即位の際に、古式に則って制作(再現)された物であるが、玉座は茵(しとね)から椅子に代わり、新たに皇后が着座する御帳台(みちょうだい)が併置された。今日では、京都御所の紫宸殿に常設されており、春・秋の一般公開時に見ることが出来る。
折口信夫によれば高御座は古く「のりと」と呼ばれた場所を指し、そこで詔旨宣下されるものは「のりとごと」であったが、省略され現代の用例になったのではないかと推測している[6]。
構造と外形
[編集]高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり大陸文化の影響、と考える人がいるが、『延喜式』巻第16内匠寮に高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され二種類の敷物を重ねる平敷であり椅子ではない。伊勢奉幣のさいの子安殿の御座や清涼殿神事のさいの天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので、大極殿の御座もこれに類する[7]。また、儀式によって椅子を設置したり取り外したりしたと考える研究者もいる[8]。
高御座と皇居
[編集]調度品としての「高御座」の保管場所そのものから天皇の正式な在所を権威づけるだけの伝統的・文献的根拠は明確ではない。仁藤敦史によれば、古代日本では高御座と京職などが存在することが首都の要件であったとする[9]。高御座は天皇の所在地を示すものという見方があり、これに従えば古代から大極殿に高御座は常設されていたとなるが、延喜式や中世の史料によれば高御座は組み立て式で、即位や朝賀などの重要な儀式のときだけ使われ、終われば撤去されるものであったとされる[10]。
高御座の成立は大極殿の成立より早いと見られているが、国家的儀式を大内裏大極殿で開催されるようになってからは大極殿で、大極殿の廃絶後は様々な殿舎で行われ、中世では太政官庁、南北朝の代には天皇即位の際に北朝で設営されたことを示す記録がある[11]。のち後柏原天皇(1464年 - 1528年)が紫宸殿で即位式をおこない高御座は紫宸殿に移され、以降高御座は紫宸殿にある[12]。天明の大火(天明8年、1788年)のさいには焼失し[13]、幕末(弘化四年)にいったん平安朝様式で復興したものの安政元年(1854年)の大火でまた紫宸殿と共に消失してしまい、そのため明治天皇の即位式(慶應四年)の際には簡素な御帳台(清涼殿の昼御座と同形)が代用された[14]。
現在も高御座は、京都御所内の紫宸殿に安置されている。東京奠都後も、大正天皇・昭和天皇の即位の大礼は、高御座のある京都御所で行われた。第125代天皇明仁の際は、警備上の問題[15] から、東京の皇居で即位の礼が行われたが、高御座と御帳台は陸上自衛隊のヘリコプターによって皇居まで運ばれ[16]、大礼終了後に京都御所の紫宸殿に戻された。しかし第126代天皇徳仁の際には社会情勢の変化などが考慮され、運搬は民間業者へ委託。計8台のトラックによる陸路での運搬となった[17]。
逸話
[編集]殿上の肝試し
[編集]「 | 花山院が藤原道隆・道兼・道長の3兄弟に、「道隆は豊楽院へ、道兼は仁寿殿の塗籠へ、道長は大極殿へ行け」と言いつけた。2人の兄は途中で逃げ帰ったが、道長だけは平然と大極殿へ行き、証拠として高御座の南面の柱の下を少しだけ削り取って帰った。 | 」 |
—「大鏡」現代語訳 |
この話は創作だという説がある。論拠として花山天皇の在位期間中(984年 - 986年)、藤原道隆は30代前半、道兼は20代中盤、道長は20歳前後と、肝試しをするには少々老けすぎていたことが挙げられる。
ギャラリー
[編集]-
饗宴の儀終了後、宮殿正殿の高御座を前に歓談する天皇、皇族らと各国首脳
-
紫宸殿に据えられている高御座(京都御所)
-
平城宮跡・第1次大極殿に復元された高御座
脚注
[編集]- ^ 『ブリタニカ国際第百科事典』
- ^ 「牽牛子塚古墳の発掘成果を考える (PDF) 」今尾文昭(奈良県立橿原考古学研究所総括研究員)
- ^ “衆議院議員小森龍邦君提出即位の礼、大嘗祭に関する質問に対する答弁書” (PDF). 衆議院 (1990年11月20日). 2013年2月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月31日閲覧。
- ^ 末松(2010)
- ^ 上島(2001)p.260-262
- ^ 折口信夫「高御座」(国学院雑誌第三十四巻第三号 1928.3)
- ^ 川本重雄 (2009年6月8日). “宮殿建築の空間と儀式に関する歴史的研究” (PDF). 科学研究費助成事業データベース. 2013年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月8日閲覧。
- ^ 吉江崇「律令天皇制儀礼の基礎的構造-高御座に関する考察から-」『史学雑誌』112-3(2003年)(改題所収:「天皇の座と儀礼構造-高御座に関する考察から-」吉江『日本古代宮廷社会の儀礼と天皇』(塙書房、2018年) ISBN 978-4-8273-1293-5) 2018年、P11
- ^ 仁藤敦史「古代都城の首都性」(『年報都市史研究』1999年)
- ^ 和田萃京都教育大名誉教授(日本古代史)[1](asahi.comマイタウン・奈良「大極殿は何に使われたの?」2010.4.28)
- ^ 一条経通「玉英」建武四年(1337年)十二月二十八日条「此日天皇於太政官正庁有昇壇践祚、即被追仁治三年佳摸也」
- ^ 和泉雅人「麒麟考日本編」(慶應義塾大学藝文学会2002.6)P.304
- ^ 西村慎太郎「災害による朝廷儀式記録の消失と高御座の再生」(国文学研究資料館紀要2016.03)
- ^ 所功「高御座の来歴」(別冊歴史読本『古式に見る皇位継承「儀式」宝典』新人物往来社)[2][3](H.2.2.23)P.159
- ^ 一部の過激派勢力が高御座をターゲットに絶対阻止、輸送阻止あるいは爆砕というようなことを非常に強力に主張していたためとされる。国会議事録118回参議院内閣委員会(平成2年6月21日)
- ^ 陸上自衛隊 第1ヘリコプター団 ヘリ団の任務。なお自衛隊による輸送は空輸任務についてであり、京都御所から基地まで、および立川基地から御所までの輸送は担当していない。
- ^ “高御座を東京に移送 「即位礼正殿の儀」に向け初の陸送”. 産経新聞. (2018年9月26日) 2018年9月26日閲覧。
参考文献
[編集]- 上島亨「第6章 中世王権の創出と院政」『日本の歴史08 古代天皇制を考える』講談社、2001年6月。ISBN 4-06-268908-1
- 末松剛「即位式における摂関と母后の高御座登壇」『平安宮廷の儀礼文化』吉川弘文館、2010年6月。ISBN 4-642-02475-1 (初出、1999年)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、高御座に関するカテゴリがあります。