薛瑩
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薛 瑩(せつ えい、? - 282年)は、中国三国時代の呉の政治家。字は道言。豫州沛郡竹邑県(現在の安徽省宿州市埇橋区)の人。父は薛綜。兄は薛珝。子は薛兼。孫は薛顒。
生涯
[編集]呉に仕えて秘書中郎将となり、孫休の代には散騎常侍に、孫晧の代には皇太子の補佐係や左国史に採り立てられた。
建衡元年(269年)、陸凱は亡くなる直前、国の支えとなる人物の一人として薛瑩の名を挙げている[1]。
しかしその後、土木工事で失敗した事から孫晧の怒りを買い、交州に流罪とされた。この時は、華覈の取り成しで許され中央に戻っている。しかしその後、再び政争に巻き込まれて交州に流されかけた上、獄中に投獄された。この時は、陸抗の弁護で許されている。当初の『呉書』[2]の編者である韋昭が没し、右国史である華覈が中央から去った後は、彼が編纂の中心人物になったものと思われる。
呉の滅亡直前には光禄勲に就いた。天紀4年(280年)、西晋が呉に侵攻してきた際は(晋の呉征伐)、孫晧に対して降伏する事を勧め、その降伏文書を自らが書いた上で、胡沖と共に降伏の使者となり、司馬伷・王渾・王濬の元へ赴いた。
その後は西晋に仕えて散騎中常侍となり[3]、『後漢書』百巻(范曄の著物とは別)を編纂している。武帝から、呉が滅びた原因を尋ねられると「小人を信任し、刑罰を濫発したため、多くの人の不信感を招いた」と回答した。太康3年(282年)に死去した。
著作集として、他に『新議』八片集三巻があったといわれる。
家系図
[編集]薛綜 | 薛珝 | ||||||||||||||||||||||||||||||
薛瑩 | 薛兼 | 薛顒 | |||||||||||||||||||||||||||||