立花種長
表示
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 寛永2年(1625年)8月 |
死没 | 宝永8年2月1日(1711年3月19日) |
改名 | 仙千代(幼名)、種長、道運(号) |
別名 | 弥七郎 |
戒名 | 寿徳院殿泰叟道運大居士 |
墓所 | 福岡県大牟田市今山の法輪寺 |
官位 | 従五位下和泉守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
藩 | 筑後三池藩主 |
氏族 | 立花氏 |
父母 | 父:立花種次、母:佐久間勝之の娘・青樟院 |
兄弟 | 種長、種世、立花宗茂養女 |
妻 |
正室:市橋長政の娘・浄光院 継室:小出吉英の4女・高岳院 |
子 | 種明、種澄、三原種義、種久、種要、正明、屋山宗之、玉泉院、屋山孟貞養女ら8男7女 |
立花 種長(たちばな たねなが)は、筑後国三池藩の第2代藩主。
生涯
[編集]寛永2年(1625年)8月、初代藩主・立花種次の長男として生まれる。寛永7年(1630年)、父の死去により家督を継ぐ。寛永14年(1637年)の島原の乱では幼少のため、叔父の立花忠茂が代理として出陣している。
成長してからは藩政を取り仕切り、島原の乱後から行なわれた踏絵、宗門改めを強化した。さらに三代官制を五代官制に改めて農民統制を強化した(承応元年(1652年)に三代官制に再編)。その一方で家臣・平塚信昌を重用して早鐘地を築き、通水用の早鐘眼鏡橋(国の重要文化財)を架橋するなど、藩政の確立に尽力した。万治3年(1660年)、12月28日に従五位下、和泉守に叙任する。
天和2年(1682年)2月27日、長男・種明に家督を譲って隠居し、道運と号した。宝永8年(1711年)2月1日に三池で死去した。享年87。
系譜
[編集]子女は8男7女
父母
正室、継室
子女