石井政雄
石井 政雄 | |
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生誕 |
1931年1月29日 日本 千葉県 |
死没 | 2007年5月9日(76歳没) |
所属組織 | 陸上自衛隊 |
軍歴 | 1954 - 1990 |
最終階級 | 統合幕僚会議議長たる陸将 |
除隊後 | 日本戦略研究フォーラム副理事長 |
石井 政雄(いしい まさお、1931年〈昭和6年〉1月29日 - 2007年〈平成19年〉5月9日)は、日本の陸上自衛官。第20代陸上幕僚長、第17代統合幕僚会議議長。勲二等正四位。
略歴
[編集]千葉県出身。松戸の旧家の生まれ[1]。中学3年で終戦を迎えたため、目指す陸士に進めず、地元の高校から立教大学へ進学[1]。大学を卒業後は計算機の会社に就職した[1]。1年間の研修が終わるころ、たまたま訪れた都庁で保安隊の幹部候補生募集のポスターを見て入隊を決意した[1]。
幹部候補生学校を卒業後、普通科教導連隊に配属[2]。普通科を選んだ理由は「普通科(歩兵)こそ軍の主兵だと思い、自衛隊に入ると決めた以上、普通科になると決めていた」と語っている[2]。普通科教導連隊で小隊長、中隊長代理、それから富士学校で教官をつとめ「富士の裾野で8年間過ごせたことは普通科の幹部としては大変恵まれており、充実した毎日であった」という[2]。1964年(昭和39年)、幹部学校のCGS(指揮幕僚課程)を修了し、石川地方連絡部に配属[2]。当時、地連は後方という考え方であったが、募集難となり、CGS出身者を地連に配属するという人事施策がとられ、その第一号となった[2]。後に自衛隊栃木地方連絡部長となるが、石川地連時代の経験が後々大変役に立ったという[2]。
幹部学校で教官を務め、米国に留学。その後は栃木地連部長、第30普通科連隊長を務めたのち、陸上幕僚監部の防衛課長として53中業を手掛けた[2]。その後も第11師団長、陸上幕僚副長等の要職を歴任し、第20代陸上幕僚長に就任。旧軍の教育を受けていない初の陸幕長であった。統合幕僚会議議長在職中は、日本版DIAである情報本部構想の推進(1997年1月に設立)に努めた。また、第11師団長であった1985年(昭和60年)に真駒内駐屯地内にさっぽろ雪まつり資料館をオープンさせた。
年譜
[編集]- 1954年(昭和29年)4月:陸上自衛隊(当時は保安隊)入隊(第9期一般幹部候補生課程)
- 1955年(昭和30年)4月:3等陸尉任官
- 1965年(昭和40年)7月1日:3等陸佐に昇任
- 1966年(昭和41年)7月16日:陸上幕僚監部第1部勤務
- 1969年(昭和44年)
- 7月1日:2等陸佐に昇任
- 7月16日:陸上自衛隊幹部学校勤務
- 1971年(昭和46年)6月18日:米国留学(米国陸軍指揮幕僚大学指揮幕僚課程研修)
- 1972年(昭和47年)7月17日:第9師団司令部第3部長
- 1974年(昭和49年)
- 7月1日:1等陸佐に昇任
- 7月16日:自衛隊栃木地方連絡部長
- 1976年(昭和51年)8月2日:第30普通科連隊長兼新発田駐とん地司令
- 1978年(昭和53年)7月1日:陸上幕僚監部防衛部防衛課長
- 1980年(昭和55年)7月1日:陸将補に昇任、西部方面総監部幕僚副長
- 1982年(昭和57年)7月1日:統合幕僚会議事務局第5幕僚室長
- 1983年(昭和58年)7月1日:陸将に昇任
- 1984年(昭和59年)3月29日:第11師団長
- 1985年(昭和60年)10月1日:陸上幕僚副長に就任
- 1986年(昭和61年)3月17日:第20代 陸上幕僚長に就任
- 1987年(昭和62年)12月11日:第17代 統合幕僚会議議長に就任
- 1990年(平成 2年)3月16日:退官
- 2002年(平成14年)4月29日:勲二等旭日重光章受章[3]
- 2007年(平成19年)5月9日:胆管癌のため死去(享年76)。叙・正四位[4]
栄典
[編集]- 勲二等旭日重光章:2002年(平成14年)4月29日
脚注
[編集]- ^ a b c d 朝雲新聞(昭和61年4月3日)第6面「今週の顔」
- ^ a b c d e f g 新陸幕長に聞く陸上戦力こそ最大の抑止力 / 横田博之/「軍事研究」 1986年6月 P88~95 ジャパンミリタリー・レビュー
- ^ 『官報』号外第89号(平成14年4月30日)
- ^ 『官報』本紙第4601号(平成19年6月11日)
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