田沼意誠
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保6年(1721年) |
死没 | 安永2年12月19日(1774年1月30日) |
改名 | 意誠 |
別名 | 専助、主水、市左衛門(通称) |
官位 | 従五位下、能登守 |
幕府 |
江戸幕府小姓、 一橋家家老 |
主君 | 徳川宗尹 |
藩 | 幕府、一橋家 |
氏族 | 田沼氏 |
父母 | 父:田沼意行、母:田代高近の養女・辰 |
兄弟 | 意次、意誠、意満 |
妻 | 正室:伊丹直賢の孫 |
子 | 意致、石谷清豊 |
田沼 意誠(たぬま おきのぶ、1721年(享保6年) - 1774年1月30日(安永2年12月19日)[1])は、江戸時代中期の幕臣(旗本)。田沼意行の次男。田沼意次の弟。妻は一橋家家老伊丹直賢の孫。子に一橋家家老から幕府御側御用取次まで昇進した意致、および石谷清定の養子となった石谷清豊[2]などがいる。
来歴
[編集]徳川吉宗の側衆であった父・意行の次男として生まれる。吉宗が幕政を主導するために引き入れた紀州系幕臣としては第2世代に当たる。1732年(享保17年)に徳川宗尹の小姓となる。1736年(元文元年)に200俵取りとなり、後の御三卿の一つとなる一橋家に以後死去まで仕えることとなる。1746年(延享3年)、一橋家附切となる[3]。1759年(宝暦9年)に知行500石となり、2月9日には一橋家の家老に昇進、従五位下・能登守に叙任した。1770年(明和7年)に300石を加増され、800石の旗本となった[4]。意誠が長く勤めた一橋家家老職には、1779年(安永7年)7月28日に子の意致が目付から就任している[5]。
田沼時代に権勢を誇った田沼意次の弟であり、意誠と子の意致はともに一橋家家老を歴任した。薩摩藩は1762年(宝暦12年)2月に焼失した江戸上屋敷再建のために、幕府より拝借金を得ようとしたが、この時には意誠を通じて一橋家へ工作を行った。仙台藩の伊達重村が中将への昇進工作をした時に1765年(明和2年)6月30日に重村の側役古田良智が田沼意次の用人・井上寛司に面会したときにも意誠が仲介を依頼されていた[4]。1770年(明和7年)に福井藩に対して大坂の大名貸し商人15軒から貸付が行われた件(目標の3万両は達成できず)は大坂町奉行所の強い斡旋があり、これは福井藩が一橋家へ運動を行った結果であり、意次に通じる弟意誠のパイプが利用されていたと考えられる[6]。