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琵琶島城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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琵琶島城
新潟県
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 宇佐美氏?
築城年 不明
主な城主 宇佐美定満、琵琶島殿、琵琶島弥七郎、前島修理亮、桐沢具繁
廃城年 1598年慶長3年)
遺構 なし(埋没)
指定文化財 柏崎市指定史跡
埋蔵文化財
包蔵地番号
柏崎市No.58
再建造物 なし
位置 北緯37度21分14.6秒 東経138度33分12.8秒 / 北緯37.354056度 東経138.553556度 / 37.354056; 138.553556
地図
琵琶島城の位置(新潟県内)
琵琶島城
琵琶島城
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琵琶島城(びわじまじょう)は、新潟県柏崎市にあった日本の城。1973年(昭和48年)8月1日に柏崎市指定史跡に指定されている[1]

概要

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築城年は不明だが、伊豆豪族であった宇佐美氏が、南北朝時代の初期、越後守護職に任ぜられた上杉憲顕に従って越後に入った時に、築城したと言われる[要出典]江戸時代に宇佐美定祐が書いた『 越後軍記』などの軍記物により、城主は宇佐美定満とする説が広く知られている[1]

鵜川の蛇行地点であり、また、支流との合流地点でもあったために、川が天然の堀を形成。当時としては越後有数の規模であった柏崎湊とも近い上に、川で繋がっていたため、軍事は勿論の事ながら、物資輸送の管理においても重要な場所であった。

宇佐美氏は、度々起こった越後守護の上杉氏と守護代長尾氏の争いにおいては、常に上杉方に組している。これは前出の通り、上杉家の随臣であったためである。

その後、宇佐美定満は、長尾氏の臣下となり、長尾景虎軍師として活躍したとされるが、1564年(永禄7年)、謀反の疑いがあった上田長尾氏当主の長尾政景と共に、坂戸城近くの野尻池で溺死した。定満には二人の息子がいたとされるが、謙信の後継者上杉景勝は宇佐美氏を冷遇したようであり、この溺死事件を境に宇佐美氏は没落していくことになった。

このほか史料にみえる城主として「琵琶島殿」「琵琶島弥七郎」の名がある[1]

宇佐美氏没落後は、前島修理亮が城主となる。前島修理亮は、1578年(天正6年)の御館の乱において、上杉景虎支持にまわる。上杉景勝は、琵琶島城近くの旗持城の城将・佐野清左衛門尉宛てに、琵琶島城への警戒、琵琶島城から御館への物流の阻止、そして琵琶島城をどうしても味方に引き入れるように、との手紙を出している。この事から、琵琶島城の軍事的・経済的重要性が高かった事が窺える。結局は、御館への物資輸送を船で行おうとしたが、佐野清左衛門尉の攻撃により失敗し、まもなく降伏・開城した。

乱後は桐沢具繁が入城。在城料として、乱で没落した北条家の所領(現、柏崎市北条)を与えられている。

1598年(慶長3年)の上杉家の会津移封に従い、廃城となった[要出典]

遺構は、昭和初期まで土塁などが残っていたが、河川改修や柏崎農業高校(現在は柏崎総合高校)建築により失われ、今は高校敷地内に石碑と説明板があるのみとなっている[2]。県の遺跡番号は「柏崎市No.58」[3]

その他

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また、甲州武田氏と幾たびも取り合いとなり、宇佐美定満が溺死した野尻湖にある野尻城も、琵琶島城とも呼ばれていた[4]

脚注

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  1. ^ a b c 柏崎市名所案内「琵琶島城跡」柏崎市公式HP
  2. ^ 柏崎市の現地案内板など
  3. ^ 「新潟県の遺跡地図」新潟県公式HP
  4. ^ 平井ほか 1980

参考文献

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