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梅津美治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梅津うめづ 美治郎よしじろう
梅󠄀津 美治郞
生誕 1882年1月4日
日本の旗 日本 大分県
死没 (1949-01-08) 1949年1月8日(67歳没)
日本の旗 日本 東京都豊島区
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1903年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
墓所 青山霊園 1ロ6-12
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梅津 美治郎(うめづ よしじろう[注釈 1]旧字体梅󠄀津 美治郞1882年明治15年〉1月4日 - 1949年昭和24年〉1月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級陸軍大将。栄典は正三位勲一等功二級

極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。1978年(昭和53年)に靖国神社に合祀される。

経歴

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現在の大分県中津市に1882年(明治15年)1月4日に生まれる。偶然にも明治天皇から陸海軍軍人に「軍人勅諭」が下賜された日でもある。若いころは、母の再婚先の是永姓を一時名乗り、明治期の実役停年名簿には「是永美治郎」の名前で記載されている。

中学済々黌を経て、熊本陸軍地方幼年学校[1]陸軍中央幼年学校陸軍士官学校(第15期7番)、陸軍大学校(第23期首席[注釈 2])を卒業。

参謀本部編制動員課長、陸軍省軍務局軍事課長と主流を歩むが、陸軍の刷新を図る佐官級の二葉会、一夕会などとは距離を置いていた。

1931年(昭和6年)8月に参謀本部総務部長に就く。

  • 同年12月に犬養内閣が発足、いわゆる皇道派荒木貞夫が陸相に就任すると、荒木は真崎甚三郎を参謀次長に据え参謀本部の実権を握らせる。
  • しかし真崎の腹心で対ソ戦略の権威である小畑敏四郎第三部長と、陸軍きっての逸材とされる永田鉄山第二部長の間に深刻な対立が発生、対ソ準備への専心を説く小畑に対し永田は対支那一撃論を主張した。
  • 両者は東條英機鈴木率道ら課長級も巻き込んで争った。

梅津は古荘幹郎第一部長とともにこの抗争への対応に苦慮するが、皇道派の専横や派閥人事もあって次第に真崎、小畑らへの批判を強め、やがて皇道・統制両派の角逐につながる。

1934年(昭和9年)3月には支那駐屯軍司令官に就任。同年11月に宋哲元の部下の馮治安の部隊が熱河省を侵犯し、大灘西方20キロの断木梁に進出し、関東軍が追撃し宋哲元の本拠地近くまで迫った。梅津は宋哲元のとりなしをして、関東軍は追撃を止め引き返した。

1935年(昭和10年)6月に国民革命軍何応欽と「梅津・何応欽協定」を結ぶ。当時、華北で相次いだ反日活動が国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、

  1. 河北省内の国民党支部をすべて撤廃
  2. 国民党駐河北省の東北軍第51軍、国民党中央軍および憲兵三団の撤退
  3. 河北省主席である于学忠の罷免
  4. すべての抗日団体とその活動の取り締まり

といった内容の協定を結んだ。この協定の申し入れについては、当初梅津は全く知らず、駐屯軍の酒井隆参謀長と高橋坦陸軍武官の策謀であったとされている。

1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が勃発。第2師団長(仙台)であった梅津は、第4師団長(大阪)の建川美次と電話で早期鎮圧の方策について話し合い[2]、陸軍省に断固討伐を求める電報を発する。

事件後、同年3月には古荘幹郎の後任として陸軍次官に就任。

翌年にかけて寺内寿一陸軍大臣の下で大規模な粛軍人事を行い、皇道派を中央から一掃した。その際に陸軍省に軍務課を新設し、陸軍の政治への発言力を強めたのが皇道派の反発を招いた。一部の右翼活動家からは「梅津は日本の赤化を企図している」という怪文書を撒かれる結果となった。

1939年(昭和14年)8月の阿部内閣組閣に当たって、三長官会議では多田駿を後継陸相に推挙するが、昭和天皇の「畑俊六侍従武官長)、梅津以外は三長官会議の結論であっても認める意思はない」との言により畑が陸相となる。

この発言は、前陸相の板垣征四郎が中心となって推進した日独防共協定強化策を嫌い、自らの意を受けてこれに反対しうる陸相が必要という天皇の判断によるものであり、二・二六事件後の粛軍をこなした梅津への信頼感を物語る。

同年9月、関東軍司令官(1942年から関東軍が総軍に格上げされ総司令官に名称変更)に就任。直前に発生したノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた後で、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀らの粛正が求められていたが、見事にその任を果たした。

太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。

1944年(昭和19年)7月、サイパン島失陥の責任を取って辞任した東條英機(首相陸軍大臣も兼務していた)の後任として参謀総長に就任。

終戦後まで務め、最後の参謀総長となった。なお、東條はその後の首相退任に当たり、次の内閣で陸軍大臣として残ることを画策したが、参謀総長となった梅津が杉山元教育総監とあらかじめ打ち合わせを済ませ、東條を含めた三長官会議の結果、杉山が陸相に回ることとなった。

同年12月、海軍の小沢治三郎中将がPX作戦英語版、いわゆる細菌戦を立案した。これは榎尾義男海軍大佐が指揮し、細菌を保有するネズミや蚊を人口が密集する米本土西岸にばらまき生物災害を引き起こす作戦内容であった。機材として航空機2機を搭載する伊四〇〇型潜水艦を使用する計画ではあったが海軍に細菌研究がなかったため、陸軍の石井四郎軍医中将の協力を要請し陸海の共同計画となり、人体実験を含む研究が進められた。

1945年3月26日海軍上層部は決行に合意したが、陸軍参謀総長であった梅津が「アメリカに対する細菌戦は全人類に対する戦争に発展する」と反対したため実行はされなかった。この件に関して戦後しばらく関係者の沈黙が続いたが、のちに榎尾元大佐が新聞で経緯を語った[3]

1945年(昭和20年)5月以降、軍・政府首脳の間で終戦に向けた動きが始まる。敗戦にあたっては梅津の心配はアメリカに対する賠償金がどれほど巨額になるのかという点にもあったと言われる。

陸軍の軍令の長であった梅津は、表だっては本土決戦の主張を変えなかった。

その一方、5月11日から開催された最初の最高戦争指導会議構成員会合では、海軍大臣米内光政が「対ソ工作も結局するところ米英との仲介の労を取らせて大東亜戦争を終結することに最後はなると思うが」と発言した際に「その通りだ」と返答したり[4]、6月9日に昭和天皇に関東軍の視察報告を上奏した際に「兵力が8個師団分しかなく、弾薬は大会戦の一回分しかない」と伝える[5]など、戦争の継続に対して懐疑的な態度を見せたこともあった。天皇には本土決戦の準備ができていないことを明示した極秘資料も提示している。

8月9日深夜の御前会議では、陸軍大臣の阿南惟幾とともに、陸軍を代表して、ポツダム宣言受諾ではなく継戦による本土決戦を主張した[6]

海軍軍令部総長だった豊田副武は、阿南や梅津は和平は不可避と考えながら、将校の圧力のために強硬論を言わざるを得なかったと記している[6]

また、ポツダム宣言受諾通告後の「バーンズ回答」に際しても、阿南とともに「自主的武装解除と本土占領の拒否」を主張している[7]

しかし、14日朝に一部将校たちによる本土決戦を求めるクーデター計画を阿南から知らされた際は絶対反対を唱え、計画を中止させた(宮城事件も参照)。のみならず、陸軍上層部に「承詔必謹」を徹底させ、その後のクーデターの動きにも後ろ盾を与えなかった[8]

降伏調印全権団一行。中央で後ろ手姿の軍服の人物が梅津。向かって左隣は重光。

終戦により調印式全権を依頼されると、降伏に賛成した米内光政や鈴木貫太郎(終戦当時の首相で、元海軍大将)らが適役であるとして一旦は拒否したが、9月2日に東京湾に停泊した米海軍戦艦ミズーリの艦上で、降伏文書調印式が行われ、大本営を代表し署名した。

東京裁判の法廷では、広田弘毅重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。

判決は終身禁固刑が言い渡され、1949年(昭和24年)1月8日、服役中に直腸癌により病没した。享年68(満67歳没)。梅津は、生涯日記も手記も残さず、病床には、「幽窓無暦日」とだけ書いた紙片が残されていたのみだった。

人物

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無表情で喜怒哀楽が少ないことから能面と評され、またいかなる派閥にも属さず、自らも子分を作らなかったと言う。

年譜

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歩兵第1連隊中隊長時代の梅津
対連合国の降伏文書に調印する梅津
戦後、法廷に立つ梅津

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

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  • 長男 梅津美一(東京帝国大学在学中に学徒出陣。第四期防備専修予備学生。海軍少尉任官後、第9根拠地隊分隊士。戦後は東京裁判で父の副弁護人を務める。)
  • 梅津成実(イラストレーター)

伝記

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  • 『最後の参謀総長 梅津美治郎』同刊行会編、芙蓉書房、1976年
  • 清原芳治『参謀総長梅津美治郎と戦争の時代』大分合同新聞社、2008年
  • 佐野量幸 『梅津美治郎大将 終戦をプロデュースした男』元就出版社、2015年
  • 岩井秀一郎 『最後の参謀総長 梅津美治郎』祥伝社新書、2021年

登場する小説

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脚注

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注釈

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  1. ^ 大尉時代に「はるじろう」から読み方を変更。
  2. ^ 卒業成績優等は6人。2位永田鉄山、3位 前田利為、4位藤岡萬蔵、5位篠塚義男、6位小畑敏四郎

出典

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  1. ^ a b c 半藤 2013, 位置No. 3785 - 3795, 陸軍大将略歴〔昭和元年から十五年末までに親任〕:梅津美治郎
  2. ^ 高橋正衛『二・二六事件』中公新書61頁
  3. ^ デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 下』時事通信社224-225頁
  4. ^ 長谷川毅『暗闘 (上)』中央公論新社中公文庫〉、2011年、p.152。 この内容は高木惣吉の『高木日記』等からの引用。
  5. ^ 長谷川、2011年(上)、p.210。高木惣吉は、梅津がこの報告で終戦の必要をそれとなく伝えたのだと解している。
  6. ^ a b 長谷川毅『暗闘(下)』中央公論新社〈中公文庫〉、2011年、p.89
  7. ^ 長谷川、2011年(下)、p.144
  8. ^ 長谷川、2011年(下)、p.160
  9. ^ a b 秦郁彦編著「日本陸海軍総合事典」 東京大学出版会、1994年、p247、p251
  10. ^ 『官報』第6212号、1904年3月19日
  11. ^ 『官報』第6601号、1905年7月3日
  12. ^ 『官報』第8535号、1911年12月1日
  13. ^ 梅津美治郎、山田乙三が大将に進級『東京日日新聞』(昭和15年8月2日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p781 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  14. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 法廷証第129号: [梅津美治郎關スル人事局履歴書]
  16. ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。※是永美治郎
  17. ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。※是永美治郎
  18. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
  19. ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
  20. ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。
  21. ^ 『官報』第3747号「叙任及辞令」1925年2月20日。
  22. ^ 『官報』第931号「叙任及辞令」1930年2月7日。
  23. ^ 『官報』第2307号「叙任及辞令」1934年9月7日。
  24. ^ 『官報』第3439号「叙任及辞令」1938年6月22日。
  25. ^ 『官報』第251号「叙任及辞令」1913年6月2日。
  26. ^ 『官報』第2895号「叙任及辞令」1922年3月30日。
  27. ^ 『官報』第602号「叙任及辞令」1928年12月29日。
  28. ^ 『官報』第3395号「叙任及辞令」1938年5月2日。
  29. ^ 『官報』1937年11月26日「叙任及辞令」。
  30. ^ 『官報』1938年12月9日「叙任及辞令」。
  31. ^ 『官報』第4343号「叙任及辞令」1941年7月1日。
  32. ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。
  33. ^ 陸軍大将梅津美治郎外三十六名満洲国勲章記章受領及佩用ノ件”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 2019年4月12日閲覧。
  34. ^ 国立公文書館「野村直邦外五十名外国勲章記章受領及佩用の件」昭和19年8月10日。
  35. ^ 有末精三外十七名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113505700 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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