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根本龍太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
根本 龍太郎
ねもと りゅうたろう
生年月日 1907年5月25日
出生地 日本の旗 日本 秋田県大曲市
(現・大仙市
没年月日 (1990-03-19) 1990年3月19日(82歳没)
出身校 京都帝国大学農学部農林経済学科
前職 建国大学助教授
所属政党 (秋田県民主党→)
民主党→)
民主自由党→)
自由党→)
日本自由党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 勲一等旭日大綬章

内閣 第3次佐藤内閣
在任期間 1970年1月14日 - 1971年7月5日

内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日

日本の旗 第11-13代 内閣官房長官
内閣 第1次鳩山一郎内閣
第2次鳩山一郎内閣
第3次鳩山一郎内閣
在任期間 1954年12月10日 - 1956年12月23日

日本の旗 第13代 農林大臣
内閣 第3次吉田第2次改造内閣
在任期間 1951年7月4日 - 1951年12月26日

選挙区 旧秋田2区
当選回数 13回
在任期間 1947年4月26日 - 1960年10月24日
1963年11月22日 - 1983年11月28日

その他の職歴
第17代 自由民主党政務調査会長
(総裁: 佐藤栄作
1968年 - 1970年
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根本 龍太郎(ねもと りゅうたろう、1907年5月25日 - 1990年3月19日)は、昭和期の日本政治家自由民主党衆議院議員秋田県大曲市(現在の大仙市)出身。勲一等旭日大綬章

来歴・人物

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秋田県立秋田農業学校(現秋田県立大曲農業高等学校)を経て、1932年京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。満州国に渡り、役人を経て、建国大学の助教授を務めた。終戦で日本に引き上げ、1947年第23回衆議院議員総選挙に旧秋田2区から秋田県民主党より立候補し当選する(当選同期に鈴木善幸中曽根康弘中山マサ松野頼三倉石忠雄石田博英園田直櫻内義雄中村寅太など)。

その後民主党に所属するが、炭鉱国管問題に反対し田中角栄幣原喜重郎原健三郎佐々木秀世らと民主党を脱党し、吉田茂自由党に入党する。吉田学校の編入生ともいえる立場となり、第3次吉田内閣組閣に当たっては、田中や吉田の女婿の麻生太賀吉とともに池田勇人大蔵大臣の実現に動いた。1951年第3次吉田第2次改造内閣農林大臣として入閣する。

吉田学校の一員であった根本であるが、自由党では党内実力者の広川弘禅派に所属していたことから、1953年に広川が吉田と袂を分かち、農相を罷免されると広川についていく形で自由党を離党し、鳩山一郎日本民主党に参加する。1954年、第1次鳩山内閣が成立すると内閣官房長官に就任し、以後、第2次第3次鳩山内閣まで務め、保守合同日ソ国交回復などで内閣を支えた。

自由民主党成立後は、河野派―園田派を経て無派閥。1957年第1次岸改造内閣1970年第3次佐藤内閣でそれぞれ建設大臣を務めた。久保田藩士検地役人の後裔で大曲市市会議員であった三浦章司(自由民主党)と親交があり、それぞれ国や秋田の繁栄に尽力した。また、田中金脈問題による田中首相の後継選出に当たっては、無派閥の立場から自民党副総裁の椎名悦三郎を長とする党基本問題調査会(椎名調査会)副会長として調整に当たった。1983年第37回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。その地盤は御法川英文に引き継がれた。当選回数13回。1990年3月19日死去。1987年、勲一等旭日大綬章受章[1]享年82。

脚注

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  1. ^ 「秋の叙勲に4575人 女性が史上最高の379人」『読売新聞』1987年11月3日朝刊

関連項目

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議会
先代
坪川信三
日本の旗 衆議院予算委員長
1972年 - 1973年
次代
荒舩清十郎
公職
先代
坪川信三
南条徳男
日本の旗 建設大臣
第31代:1970年 - 1971年
第16代:1957年 - 1958年
次代
西村英一
遠藤三郎
先代
福永健司
日本の旗 内閣官房長官
第13-15代:1954年 - 1956年
次代
石田博英
先代
広川弘禅
日本の旗 農林大臣
第13代:1951年
次代
広川弘禅
党職
先代
大平正芳
自由民主党政務調査会長
第17代 : 1968年 - 1970年
次代
水田三喜男