東魏
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東魏(とうぎ、534年 - 550年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つ。北魏が分裂して成立した二つの魏のうち、函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の方は、西魏と呼んで区別する。
「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。
概要
[編集]534年、大丞相高歓を排除しようと謀って失敗した北魏の孝武帝は、洛陽から逃れて関中に入り、宇文泰に保護された。高歓はやむなく鄴で元善見(孝静帝)を皇帝に擁立した。これが東魏と呼ばれる。一方、宇文泰は孝武帝と相性が悪く、孝武帝を毒殺して元宝炬(文帝)を皇帝に擁立した。こちらは西魏と呼ばれる。
東魏では高歓が専権を振るい、孝静帝は高氏一族の傀儡でしかなかった。国力は当初は西魏に対して優っていたにもかかわらず、しばしば軍事的敗北を喫した。547年に高歓が死ぬと、その長男の高澄が大丞相を継いだ。間もなく侯景が南朝梁に降って東魏に叛くと、慕容紹宗に侯景を討たせ、高澄は鄴に残った侯景の妻子を殺害、また南朝梁と修好して、侯景を孤立に追い込んだ。549年、高澄は相国に上り、斉王に封じられた。しかし高澄は暴虐が酷さを増すばかりだったので、蘭京に殺された。高歓の次男の高洋が相国・斉王を継ぎ、この高洋が550年に孝静帝から禅譲されて帝位に即き、翌年元旦に国号を斉(北斉)に革めた。ここに東魏の16年の短い歴史が終った。
皇帝
[編集]元号
[編集]史跡
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 北斉に禅譲
出典
[編集]- ^ 「長さ21メートルもの北朝彩色壁画見つかる 東ローマ帝国の金貨も」『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月18日 13版 22面
- ^ 谷一尚「中国出土のビザンツ金貨」『オリエント』第40巻第2号、日本オリエント学会、1997年、124-137頁、doi:10.5356/jorient.40.2_124、ISSN 0030-5219、NAID 130000841639、2022年2月7日閲覧。
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