昨日のつづき
昨日のつづき(きのうのつづき)は、ラジオ関東(現:アール・エフ・ラジオ日本)で1959年7月6日[1][出典無効][注釈 1]から1971年4月3日まで放送されたラジオ番組である。
概要
[編集]当初は前田武彦、永六輔らが交代で執筆した台本に沿って、出演者のトークで進行する番組を制作する予定だったが、当時は民間放送の開局ラッシュという状況に比して放送作家の人数が少なく、引っ張りだこで執筆が間に合わないので、放送作家自身が出演することになった[2]。
結果、台本無しのフリートークで進行する日本初のラジオ番組となった[2]。番組の放送時間は毎週 月曜 - 金曜 22:25 - 22:35。参天製薬の一社提供。
ラジオ関東の方針で1971年4月3日の放送を最後に突如、打ち切られた。原因は前田が1971年3月10日と3月22日の放送で「ぼくはみのべ派だ」と発言し、聴取者から抗議の電話が寄せられたことや政治的な公平性を欠くという理由だった[3][4]。前田はラジオ関東社長の遠山景久の意向で局を出入り禁止になったとされる[5][注釈 2]。
出演者
[編集]当初のパーソナリティは前田武彦と永六輔。アシスタントは女優の冨田恵子。永六輔は番組開始直後の早い時期にスタッフと喧嘩別れして降板し、複数のパーソナリティが日替わりで登場していたが、[2]東京ヴィデオ・ホール[注釈 3]で客を入れずに夜中に行われていた番組収録[7][注釈 4]に頻繁に居合わせ、何度か飛び入り参加したことのある大橋巨泉で落ち着いた[8]。
番組の最後にアシスタントが語る「今日の話は昨日のつづき、今日のつづきはまた明日」というキャッチフレーズは大橋巨泉の考案とされている[1][出典無効]。その大橋巨泉も2年程で降板したが[8]、前田武彦はその後も出演を継続したことから、一般的には前田の番組として認知されている。その他のパーソナリティは青島幸男、佐野洋、はかま満緒、保富康午、小林信彦[9]らが出演していた。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 大橋巨泉は前年の開局前夜祭に於いて原型になった番組が放送されたとしている。
- ^ 前田は2年後の1973年にも夜のヒットスタジオでの「共産党バンザイ事件」を巡り、番組の司会を降板している。
- ^ 小谷正一が1953年に東京都千代田区有楽町1丁目の蚕糸会館ビル 6階にラジオ・テレビ局の公開番組用の賃貸ホールとして開設した。「ビデオホール」とも通称されていた。近隣のよみうりホール(1957年開設)と混同される事が多いが全くの別物である。
- ^ 当時、開局したばかりのラジオ関東は自社のスタジオを所有していなかったため、収録から番組制作までを東京ヴィデオ・ホールで全て行っていた。昼間のスケジュールは各放送局の公開番組の収録に当てられる為、非公開の当番組は夜中の時間帯が割り当てられていた。
出典
[編集]- ^ a b 2010年10月23日「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」での大橋巨泉の発言より。[出典無効]
- ^ a b c 「永六輔 ラジオとその草創期を語る」『笑芸人 Vol.14』、26頁、白夜書房、2004年。
- ^ 「放送デスクメモ」『マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌』第49号、日本マスコミ市民会議、1971年6月1日、57 - 58頁、NDLJP:3463710/30。
- ^ 「“消された"テレビ番組――マスコミの現実とこれからのたたかい / 田英夫」『社会主義』第234号、協同文化社、1971年6月1日、66 - 71頁、NDLJP:1415658/35。
- ^ 「「ラジオ関東」で起きた“社長告訴”の背景 / 匿名希望」『マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌』第65号、日本マスコミ市民会議、1972年10月1日、20頁、NDLJP:3463726/12。
- ^ 中原弓彦「死体置場の片隅から」 『ヒッチコック・マガジン』1960年12月号、宝石社。
- ^ 「永六輔 ラジオとその草創期を語る」『笑芸人 Vol.14』、27頁、白夜書房、2004年。
- ^ a b 「今週の遺言 第136回「巨泉・前武」ではなく「前武・巨泉」が正しい 彼は話術の天才であった(2016年7月24日時点のアーカイブ)」KYOSEN.com 2011年9月03日号、2016年7月23日閲覧。
- ^ 高田文夫「私の芸能さんぽ」第3回『小説現代』2017年1月号。