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張弘範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

張 弘範(ちょう こうはん、太宗10年(1238年) - 至元17年1月10日[1]1280年2月11日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。字は仲疇。

保定の大軍閥(漢人世侯)であった張柔の息子の一人で、崖山の戦いに代表される、南宋残党の平定戦で活躍したことで知られる。

概要

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生い立ち

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張弘範は張柔の九男で、軍事のみならず歌詩も得意とする文武両道の人物として知られていた[2]中統年間初め(1260年代初頭)に御用局総管の地位を授かり、中統3年(1262年)には行軍総管の地位を得て父の張柔とともに李璮の乱討伐に派遣された。この時、張柔は危険な戦場を避けることなく、武功を挙げるよう励めと張弘範を戒めたとされる。李璮の拠る済南城の西に布陣した張弘範の下にはほとんど攻撃がなかったが、張弘範は虚を突いての奇襲を狙っているのだろうと推察し、長塁と濠を築いてその内に兵を潜ませた。果たして李璮軍の奇襲が始まると、李璮軍は隠されていた濠に多くの者が落ちてしまい、更に濠を乗り越えてきた兵たちもほとんどが伏兵によって討たれた、賊将2名が捕虜となった。この功績を聞き、張柔は「真に我が子である」と称えたという。7月に済南城が陥落し李璮が処刑されたことで叛乱は終結したが、クビライ政権は強大な軍事力を有する漢人世侯の権限を弱めることを決めていた。そこで、朝廷は兵・民権を「大藩の子弟」が占めることを禁止することを布告し、これに従って張家では張弘略のみが万戸の地位を保ち[3]、張弘範は官位を失うことになった[4][5]

至元元年(1264年)、張弘略が宿衛(ケシク)に入ることになったため、代わりに順天路を管轄させるために張弘範が選ばれて順天路管民総管の地位を授けられた。至元2年(1265年)には大名路に移ったが、大雨のために倉庫が水に浸かってしまったため、張弘範は独断で租税を減免した。後に朝廷がこれを問題視して張弘範を召喚したところ、張弘範は厳しく税を取り立てて民が死に絶えてしまえば、明年に租税を徴収することはできない。 これからも安定して税収を得るためにしたことだ、と説明したためクビライは納得し許されたという[6]

南宋攻略

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至元6年(1269年)、南宋領の襄陽攻めのために各地の兵が集められると、張弘範は益都淄萊等路行軍万戸の地位を授けられてかつて李璮の配下にあった兵を率いるよう命じられた。李璮によって教練を受けた軍団は勇敢ではあるが制し難いと評されていたため、特に張弘範が指揮官に任命されたのだと伝えられている[7]。襄陽包囲戦では鹿門堡を守り、南宋軍の兵站を絶ち、かつ郢州からの援軍を防ぐ事を任務とした。しかし張弘範は南宋軍が水軍によって兵站を保っていること、これを防ぐために万山に城を築くべきであることを進言し、この進言が採用されて張弘範は万山に1千の兵を率いて駐屯することになった[8]。万山での築城が終わった頃に南宋軍が来襲すると、配下の将兵は兵力不足から籠城して戦うべきであると述べたが、張弘範は敢えて城外での決戦を挑んだ。張弘範は「吾が太鼓を鳴らしたら進軍せよ。鳴らない内は動くな」と命じて南宋軍の接近を待ち、南宋軍の陣形が伸びきったところで太鼓を鳴らし総攻撃を仕掛けたところ、モンゴル軍は大勝利を収めて南宋軍は潰走した[9]

至元8年(1271年)、一字城を築いて襄陽城を包囲し、更に樊城の外郭を破壊した。至元9年(1272年)の樊城攻めでは肘に流れ矢が当たるほどの激戦となったため、張弘範は水陸双方から樊城を攻めることを進言した。翌日、張弘範は再び精鋭を率いて城壁を登って遂に樊城を陥落させ、更にこれに連鎖して襄陽城も陥落したことにより、一連の戦功を賞して錦衣・白金・宝鞍が下賜された[10]

至元11年(1274年)からはバヤンを総司令とする南宋攻略に従軍し、張弘範は左翼軍に属して漢江を進み、郢西・武磯堡を攻略した。長江を渡って後は先鋒を務め、丁家洲における南宋主力軍との会戦(丁家洲の戦い)でも活躍し、南宋軍を潰走に追い込んだ。至元12年(1275年)5月、クビライはバヤンに対して敵を侮り軽進すべきではないと指示したが、張弘範は勝勢に乗じて進軍すべしと進言し、バヤンもこれに同意して江南への侵攻を続けた[11]

その後、張弘範は瓜州を拠点としたところ、揚州都統の姜才が攻撃をしかけてきた。張弘範は都元帥のアジュとともに出陣し、配下を率いて何度も突撃したが、なかなか南宋軍の陣は崩れなかった。 張弘範は一時退却したところで追撃してきた敵兵を討ち、これを契機に逆襲して遂に城門に至り、斬首1万余り、多数の溺死者を出す大勝利を得た。 南宋の将張世傑・孫虎臣らは水軍を率いて焦山にて決戦を挑んだが、張弘範は別動隊を率いて南宋軍の横を突き、これを潰走させることに成功した。張弘範は南宋軍を追撃して圌山の東に至り、戦艦80艘・捕虜1千を奪取することに成功した。これらの功績により張弘範は亳州万戸の地位を授けられ、またバアトルというモンゴル語称号を与えられた[12]

次に張弘範は中書左丞の董文炳とともにバヤンの本隊と合流し、南宋の首都の臨安に接近した。この時、張弘範が南宋朝廷とモンゴル軍の交渉を仲立ちしたと伝えられる。張弘範の尽力もあって南宋朝廷はモンゴル軍に降伏し、張弘範は至元13年(1276年)に台州で起こった叛乱の鎮圧に派遣された。至元14年(1277年)に南末遠征軍が北方に凱旋すると、張弘範もこれに従い功績によって鎮国上将軍・江東道宣慰使の地位を授けられた[13]

崖山の戦い

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至元15年(1278年)、張弘範は広王昺(祥興帝)を擁して抵抗を続ける南宋残党の平定のため、蒙古漢軍都元帥に任じられた。当初、張弘範は漢人がモンゴル兵を率いた前例はないとしてモンゴル人指揮官に元帥の地位を譲ろうとしたが、クビライはかつて張柔によるモンゴル人将軍(チャガン)への進言が受け入れられなかったために南宋に城を奪われた故事を引き、過去の失敗の轍を踏まないために張弘範を任命するのだと説明し、張弘範も指揮官の地位を受け容れた。また、この時クビライは錦衣・玉帯を賜ろうとしたが張弘範はこれを断り、剣や甲冑を賜りたいと申し出た。そこでクビライは武器庫の中から自由に剣を選ばせ、「剣は汝の副である。命令に従わない者がいれば、これで以て処刑せよ」と張弘範に述べた。また、張弘範と同じく旧李配下の兵を率いる李恒が副官として推薦され、張弘範は李恒とともに出陣することになった[14]

張弘範らは揚州に至ると、配下の軍団を水陸に分けて進ませた。また、張弘範は弟の張弘正を先鋒に命じた上で「汝が驍勇であるが故に選んだのであって、私心から選んだわけではない。軍法は重く、我は私心からこれを曲げるようなことない。よく励め」 と戒めたところ、張弘正は兄の教えをよく守り各地で勝利を収めた。漳州攻めではまず東・南・西門を攻め立て、南宋軍が油断したところで北門を破って城を陥落させたと伝えられる。これらの勝利によって沿海地域はほとんど平定され、抗戦を続けていた文天祥もこの頃捕らえられている[15]

至元16年(1279年)正月2日(癸未)、張弘範らは潮陽港から出港して甲子門に至り、南宋側の斥候の劉青・顧凱らを捕らえることで祥興帝の所在を知った。13日(辛酉)、崖山にて南宋残党軍を補足すると、崖山の東から回り込むことで南宋軍に接近し、更に別動隊によってその退路を防いだ。南末側の張世傑はもともとモンゴルに仕えていた人物で、その甥が張弘範の配下にいたこともあり三度投降を勧めたが、張世傑は尽く拒否した。26日(甲戌)、李恒が広州から崖山に至り、張弘範は戦艦2艘を授けて北側を守らせた[16]

2月6日(癸未)、戦闘に先立って大砲を使うべきである、との進言がなされたが、張弘範は万一舟に火が移れば戦いにならないと述べてこれを退けた。そして翌日、モンゴル軍は4部隊に分かれて東・南・北より南宋軍に接近し、張弘範は全軍に「南宋軍は必ず潮の流れを得て東側に逃げようとする。急ぎこれを攻め立て、逃れさせるな。命令に背く者は斬る」と命じた。戦闘が始まると、まず李恒率いる北面軍が攻撃を仕掛けたが、南宋軍を崩すことができず一時撤退した。そこで今度は張弘範自ら率いる船団が南宋軍に接近を始め、他の部隊もこれに続いた。張弘範は将兵に船上で楯を負って伏せるよう命じ、船が十分に近づいたところで攻撃を開始した。張弘範の船団が敵の舟7艘を破ったことで遂に南宋軍は潰走し、敗北を悟った南宋残党の首魁は王とともに入水したため、ここに南宋は名実ともに滅亡することとなった。張世傑のみは逃れて交趾(ヴェトナム)に向かったため李恒が追撃したものの、強風で舟が壊れた後~で亡くなった。その他の南宋残党は皆降伏し、長江以南の旧南宋領は尽く平定されたため、張弘範は崖山にこれを紀念する碑文を残したという[17]

晩年

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同年10月に張弘範は北方に帰還して入朝し、朝廷は内殿で宴を開いて張弘範を厚く慰労した。しかし、それから間もなく張弘範は病にかかり、クビライが医師や薬を手配するも病状は改善しなかった。いよいよ病が重くなると、張弘範は沐浴して衣冠を整えた上でクビライに拝礼し、退座した後は親しい者と酒を飲みながら別れを告げた。最後はクビライから下賜された剣と甲冑を息子の張珪に与えて「汝の父はこれ(剣と甲冑)で以て功績を立ててきた。汝もこれを佩服し忘れることがないように」と述べ、言い終わると同時に端座しそのまま亡くなったという。享年は43歳であった[18]

順天張氏

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張柔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張弘基
 
張弘正
 
張弘彦
 
張弘規
 
張弘略
 
張弘範
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張玠
 
張瑾
 
張琰
 
張珪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張景武
 
張景魯
 
張景哲
 
張景元
 
張景丞

脚注

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  1. ^ 『張弘範墓誌銘』による。
  2. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「張弘範字仲疇、柔第九子也。善馬槊、頗能為歌詩。年二十時、兄順天路総管弘略上計寿陽行都、留弘範攝府事、吏民服其明決。蒙古軍所過肆暴、弘範杖遣之、入其境無敢犯者」
  3. ^ 牧野2012,143/197頁
  4. ^ 牧野2012,83/408頁
  5. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「中統初、授御用局総管。三年、改行軍総管、従親王合必赤討李璮於済南。柔戒之曰『汝囲城勿避険地。汝無怠心、則兵必致死。主者慮其険。苟有来犯、必赴救、可因以立功、勉之』。弘範営城西、璮出軍突諸将営、独不向弘範。弘範曰『我営険地、璮乃示弱於我、必以奇兵来襲、謂我弗悟也』。遂築長塁、内伏甲士、而外為壕、開東門以待之、夜令士卒浚濠益深広、璮不知也。明日、果擁飛橋来攻、未及岸、軍陥壕中、得跨壕而上者、突入塁門、遇伏皆死、降両賊将。柔聞之曰『真吾子也』。璮既誅、朝廷懲璮尽専兵民之権、故能為乱、議罷大藩子弟之在官者、弘範例罷」
  6. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「至元元年、弘略既入宿衛、帝召見、意其兄弟有可代守順天者、且念弘範有済南之功、授順天路管民総管、佩金虎符。二年、移守大名。歳大水、漂沒廬舎、租税無従出、弘範輒免之。朝廷罪其専擅、弘範請入見、進曰『臣以為朝廷儲小倉、不若儲之大倉』。帝曰『何説也』。対曰『今歳水潦不收、而必責民輸、倉庫雖実、而民死亡殆尽、明年租将安出。曷若活其民、使不致逃亡、則歳有恒收、非陛下大倉庫乎』。帝曰『知体、其勿問』」
  7. ^ 杉山2004,218頁
  8. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「六年、括諸道兵囲宋襄陽、授益都淄萊等路行軍万戸、復佩金虎符。朝廷以益都兵乃李璮所教練之卒、勇悍難制、故命領之。戍鹿門堡、以断宋餉道、且絶郢之救兵。弘範建言曰『国家取襄陽、為延久之計者、所以重人命而欲其自斃也。曩者、夏貴乗江漲送衣糧入城、我師坐視、無禦之者。而其境南接江陵・帰・峡、商販行旅士卒絡繹不絶、寧有自斃之時乎宜城万山以断其西、柵灌子灘以絶其東、則庶幾速斃之道也』。帥府奏用其言、移弘範兵千人戍万山」
  9. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「既城、与将士較射出東門、宋師奄至。将佐皆謂衆寡不敵、宜入城自守。弘範曰『吾与諸君在此何事、敵至将不戦乎。敢言退者死』。即擐甲上馬、立遣偏将李庭当其前、他将攻其後、親率二百騎為長陣、令曰『聞吾鼓則進、未鼓勿動』。宋軍歩騎相間突陣、弘範軍不動、再進再却、弘範曰『彼気衰矣』。鼓之、前後奮撃、宋師奔潰」
  10. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「八年、築一字城逼襄陽。破樊城外郭。九年、攻樊城、流矢中其肘、裹瘡見主帥曰『襄・樊相為唇歯、故不可破。若截江道、断其援兵、水陸夾攻、樊必破矣。樊破則襄陽何所恃』。従之。明日、復出鋭卒先登、遂抜之。襄陽既下、偕宋将呂文煥入覲、賜錦衣・白金・宝鞍、将校行賞有差」
  11. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「十一年、丞相伯顔伐宋、弘範率左部諸軍循漢江、東略郢西、南攻武磯堡、取之。北兵渡江、弘範為前鋒。宋相賈似道督兵阻蕪湖、殿帥孫虎臣拠丁家洲。弘範転戦而前、諸軍継之、宋師潰、弘範長駆至建康。十二年五月、帝遣使諭丞相毋軽敵貪進、方暑、其少駐以待。弘範進曰『聖恩待士卒誠厚、然緩急之宜、非可遥度。今敵已奪気、正当乗破竹之勢、取之無遺策矣。豈宜迂緩、使敵得為計耶』。丞相然之、馳駅至闕、面論形勢、得旨進師」
  12. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「十二年、次瓜洲、分兵立柵、拠其要害、揚州都統姜才所統兵勁悍善戦、至是以二万人出揚子橋。弘範佐都元帥阿朮禦之、与宋兵夾水陣。弘範以十三騎径度衝之、陣堅不動、弘範引却。一騎躍馬揮刀、直趣弘範、弘範旋轡反迎刺之、応手頓斃馬下、其衆潰乱、追至城門、斬首万餘級、自相蹂藉溺死者過半。宋将張世傑・孫虎臣等率水軍於焦山決戦、弘範以一軍従旁横衝之、宋師遂敗。追至圌山之東、奪戦艦八十艘、俘馘千数。上其功、改亳州万戸、後賜名抜都」
  13. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「従中書左丞董文炳、由海道会丞相伯顔、進次近郊。宋主上降表、以伯姪為称、往返未決。弘範将命入城、数其大臣之罪、皆屈服、竟取称臣降表来上。十三年、台州叛、討平之、誅其為首者而已。十四年、師還、授鎮国上将軍・江東道宣慰使」
  14. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「十五年、宋張世傑立広王昺于海上、閩・広響応、俾弘範往平之、授蒙古漢軍都元帥。陛辞奏曰『漢人無統蒙古軍者、乞以蒙古信臣為首帥』。帝曰『汝知而父与察罕之事乎。其破安豊也、汝父欲留兵守之、察罕不従。師既南、安豊復為宋有、進退幾失拠、汝父深悔恨、良由委任不専故也、豈可使汝復有汝父之悔乎。今付汝大事、能以汝父之心為心、則予汝嘉』。面賜錦衣・玉帯、弘範不受、以剣甲為請。帝出武庫剣甲、聴其自択、且諭之曰『剣、汝之副也、不用令者、以此処之』。将行、薦李恒為己貳、従之」
  15. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「至揚州、選将校水陸二万、分道南征、以弟弘正為先鋒、戒之曰『選汝驍勇、非私汝也。軍法重、我不敢以私撓公、勉之』。弘正所向克捷。進攻三江寨、寨拠隘乗高、不可近、因連兵向之、寨中持満以待。弘範下令下馬治朝食、若将持久者。持満者疑不敢動、而他寨不虞也。忽麾軍連抜数寨、廻擣三江、尽抜之。至漳州、軍其東門、命別将攻南門・西門、乃乗虚破其北門、抜之。攻鮑浦寨、又抜之。由是瀕海郡邑皆望風降附。獲宋丞相文天祥于五坡嶺、使之拝、不屈、弘範義之、待以賓礼、送至京師。獲宋礼部侍郎鄧光薦、命子珪師事之」
  16. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「十六年正月庚戌、由潮陽港発舶入海、至甲子門、獲宋斥候将劉青・顧凱、乃知広王所在。辛酉、次崖山。宋軍千餘艘碇海中、建楼櫓其上、隠然堅壁也、弘範引舟師赴之。崖山東西対峙、其北水浅、舟膠、非潮来不可進、乃由山之東転南入大洋、始得逼其舟、又出奇兵断其汲路、焼其宮室。世傑有甥在弘範軍中、三使招之、世傑不従。甲戌、李恒自広州至、授以戦艦二、使守北面」
  17. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「二月癸未、将戦、或請先用砲。弘範曰『火起則舟散、不如戦也』。明日、四分其軍、軍其東南北三面、弘範自将一軍相去里餘、下令曰『宋舟潮至必東遁、急攻之、勿令得去、聞吾楽作乃戦、違令者斬』。先麾北面一軍乗潮而戦、不克、李恒等順潮而退。楽作、宋将以為且宴、少懈、弘範舟師犯其前、衆継之。豫構戦楼於舟尾、以布幙障之、命将士負盾而伏、令之曰『聞金声起戦、先金而妄動者死』。飛矢集如蝟、伏盾者不動。舟将接、鳴金撤障、弓弩火石交作、頃刻并破七舟、宋師大潰。宋臣抱其主昺赴水死。獲其符璽印章。世傑先遁、李恒追至大洋不及。世傑走交趾、風壊舟、死海陵港。其餘将吏皆降。嶺海悉平、磨崖山之陽、勒石紀功而還」
  18. ^ 『元史』巻156列伝43張弘範伝,「十月、入朝、賜宴内殿、慰労甚厚。未幾、瘴癘疾作、帝命尚医診視、遣近臣臨議用薬、勅衛士監門、止雑人毋擾其病。病甚、沐浴易衣冠、扶掖至中庭、面闕再拝。退坐、命酒作楽、与親故言別。出所賜剣甲、命付嗣子珪曰『汝父以是立功、汝佩服勿忘也』。語竟、端坐而卒。年四十三。贈銀青栄禄大夫・平章政事、諡武烈。至大四年、加贈推忠効節翊運功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・斉国公、改諡忠武。延祐六年、加保大功臣、加封淮陽王、諡献武。子珪、自有伝」

参考文献

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  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 野沢佳美「張柔軍団の成立過程とその構成」『立正大学大学院年報』第3号、1986年
  • 元史』巻156列伝43張弘範伝
  • 新元史』巻139列伝36張弘範伝