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嵯峨根遼吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嵯峨根 遼吉さがね りょうきち
生誕 (1905-11-27) 1905年11月27日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1969-04-16) 1969年4月16日(63歳没)
研究分野 実験物理学
研究機関 理化学研究所
東京大学
アイオワ大学
カリフォルニア大学
出身校 東京帝国大学
主な業績 戦後日本の学術研究体制の整備
日本学術会議の創設に尽力
プロジェクト:人物伝
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嵯峨根 遼吉(さがね りょうきち、1905年11月27日 - 1969年4月16日)は、日本物理学者。専門は実験物理学東京府(現・東京都)出身。

略歴

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業績

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  • 戦後日本の学術研究体制の整備、日本学術会議の創設に尽力した。
  • 1953年には、アメリカを訪問した中曽根康弘衆議院議員と面会し、原子力政策を推進するための助言をした。このことが、1955年の原子力基本法制定につながった。中曽根は、1996年の著書で次のように回想していた。

サンフランシスコに戻って、バークレーのローレンス研究所にいた理化学研究所の嵯峨根遼吉博士に領事公邸にきてもらって二時間くらい話を聞きました。嵯峨根さんはひじょうにいい助言をしてくれました。

一つは、「国家としての長期的展望に立った国策を確立しなさい。それには法律をつくって、予算を付けるというしっかりしたものにしないと、ろくな学者が集まってこない」と。それから、一流の学者を集めるにはどうしたらいいかとか、そういう話を聞いて帰ってきました[3]

家族・親族

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嵯峨根遼吉は長岡半太郎の五男として生まれ[4]、嵯峨根家の養子となった[4]。父・半太郎は箕作麟祥の娘婿だが[4][5]、母は半太郎の後妻・登代なので箕作家の血は流れていない(半太郎の先妻が麟祥の三女・操子[5][4]。元日本光学社長・長岡正男の異母弟にあたり[4]、共に東京府立一中の同窓。

妻は岡谷鋼機社長を務めた10代目岡谷惣助の娘・寿子[4][6]。寿子の兄・岡谷正男と弟・岡谷康治も父の10代目惣助同様岡谷鋼機の社長を務めた[7]。正男の次女は日産自動車に勤務していた自動車技術者でR33型・R34型スカイラインの開発責任者(主管)を務めた渡邉衡三に嫁いだので[6]、渡邉は嵯峨根の義甥にあたる。

脚注・出典

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  1. ^ 博士論文書誌データベース
  2. ^ 原爆の威力について理解できるはずの嵯峨根から日本政府に降伏を働きかけるようにとの勧めが書かれていた。しかし、この手紙が嵯峨根博士に渡ったのは終戦後の9月になってからであった。 檜山良昭の閑散余録 「第141回 原爆投下秘話 一通の手紙」 (2007年8月9日 手紙の写真あり)
  3. ^ 中曽根康弘『天地友情 五十年の戦後政治を語る』1996年、文芸春秋、p166~168
  4. ^ a b c d e f 『門閥』、480-481頁、484頁。
  5. ^ a b 「学問の歩きオロジー わが故郷の偉人たち (3) - 現代につながる巨星たちの系譜」、102頁。
  6. ^ a b 『豪閥』、246-247頁。
  7. ^ 『豪閥』、246-247頁、249頁。

参考文献

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関連項目

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