コンテンツにスキップ

呂号第四十九潜水艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 昭和17年度計画(マル急計画[1]
起工 1942年11月16日[1]
進水 1943年8月3日[1]
就役 1944年5月19日[1]
その後 1945年3月25日敵情報告後に消息不明[1]
亡失認定 1945年4月15日[1]
除籍 1945年5月25日[1]
性能諸元
排水量 基準:960トン 常備:1,109トン
水中:1,447トン
全長 80.50m
全幅 7.05m
吃水 4.07m
機関 艦本式22号10型ディーゼル2基
電動機、2軸
水上:4,200馬力
水中:1,200馬力
電池 1号15型240コ[2]
速力 水上:19.8kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:16ktで5,000海里 
水中:5ktで45海里
燃料 重油
乗員 61名
兵装 40口径8cm高角砲1門
25mm機銃連装1基2挺
53cm魚雷発射管 艦首4門
魚雷10本
備考 安全潜航深度:80m

呂号第四十九潜水艦(ろごうだいよんじゅうきゅうせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂三十五型潜水艦(中型)の15番艦。

艦歴

[編集]

1942年昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画[1]により、1942年11月16日、三井玉野造船所で起工。1943年(昭和18年)8月3日進水。1944年(昭和19年)5月19日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[3]呉鎮守府呉潜水戦隊第33潜水隊に編入された。

7月、呂49は伊157と共に13号電探を搭載し試験を行った。8月15日、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入。

1944年11月10日、第34潜水隊に編入[3][4]

16日、呂49はを出港し、ルソン島東方沖に進出[4]。28日、荒天で聴音機が故障したため、哨戒を中止。12月7日、呉に到着[4]

1945年(昭和20年)1月1日、呂49は呉を出港し、フィリピン東方沖に進出。4日、ルソン島西方沖に移動するよう命ぜられる。12日、イバ西北西55浬地点付近で多数の護衛がついた米護衛空母2、米戦艦3を発見。雷撃の結果アイダボ級戦艦1隻を撃沈したと報告したが、連合軍側に該当する艦船はない。2月1日、呉に到着[4]

3月16日、呂49は呉を出港し、同日佐伯に到着。18日、佐伯を出港し南西諸島南東沖に進出[4]。同年3月25日、沖縄方面で状況を報告したのを最後に消息不明[1]

アメリカ側記録では、26日午前、呂49は米第54任務部隊を発見。0932、米重巡洋艦ウィチタ(USS Wichita, CA-45)が右舷に潜望鏡を発見。呂49は魚雷を発射したが、ウィチタは右転舵によりこれを回避した。また、米軽巡洋艦セントルイス(USS St. Louis, CL-49)も魚雷の航跡を発見したが、命中しなかった。呂49は爆雷攻撃を受けるが、回避に成功して離脱した。それ以降、アメリカ側記録には呂49と思われる記録がなく、艦長の郷康夫大尉以下乗員79名全員行方不明(戦死認定)[5]

4月15日、沖縄方面で亡失と認定され、5月25日に除籍された。

歴代艦長

[編集]

艤装員長

[編集]
  • 不詳

艦長

[編集]
  • 普門正三 大尉:1944年5月19日 - 8月5日[5]
  • 菅昌徹昭 大尉:1944年8月5日 - 1945年2月5日[5]
  • 郷康夫 大尉:1945年2月5日 - 4月15日戦死認定[1][5]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本海軍史』第7巻、375-376頁。
  2. ^ 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』72頁。
  3. ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』96頁。
  4. ^ a b c d e 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』156頁。
  5. ^ a b c d 『艦長たちの軍艦史』453頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』156頁。

参考文献

[編集]
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9