呂号第四十九潜水艦
艦歴 | |
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計画 | 昭和17年度計画(マル急計画)[1] |
起工 | 1942年11月16日[1] |
進水 | 1943年8月3日[1] |
就役 | 1944年5月19日[1] |
その後 | 1945年3月25日敵情報告後に消息不明[1] |
亡失認定 | 1945年4月15日[1] |
除籍 | 1945年5月25日[1] |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:960トン 常備:1,109トン 水中:1,447トン |
全長 | 80.50m |
全幅 | 7.05m |
吃水 | 4.07m |
機関 | 艦本式22号10型ディーゼル2基 電動機、2軸 水上:4,200馬力 水中:1,200馬力 |
電池 | 1号15型240コ[2] |
速力 | 水上:19.8kt 水中:8.0kt |
航続距離 | 水上:16ktで5,000海里 水中:5ktで45海里 |
燃料 | 重油 |
乗員 | 61名 |
兵装 | 40口径8cm高角砲1門 25mm機銃連装1基2挺 53cm魚雷発射管 艦首4門 魚雷10本 |
備考 | 安全潜航深度:80m |
呂号第四十九潜水艦(ろごうだいよんじゅうきゅうせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三十五型潜水艦(中型)の15番艦。
艦歴
[編集]1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)[1]により、1942年11月16日、三井玉野造船所で起工。1943年(昭和18年)8月3日進水。1944年(昭和19年)5月19日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、舞鶴鎮守府籍となり[3]、呉鎮守府呉潜水戦隊第33潜水隊に編入された。
7月、呂49は伊157と共に13号電探を搭載し試験を行った。8月15日、訓練部隊である第六艦隊第11潜水戦隊に編入。
16日、呂49は呉を出港し、ルソン島東方沖に進出[4]。28日、荒天で聴音機が故障したため、哨戒を中止。12月7日、呉に到着[4]。
1945年(昭和20年)1月1日、呂49は呉を出港し、フィリピン東方沖に進出。4日、ルソン島西方沖に移動するよう命ぜられる。12日、イバ西北西55浬地点付近で多数の護衛がついた米護衛空母2、米戦艦3を発見。雷撃の結果アイダボ級戦艦1隻を撃沈したと報告したが、連合軍側に該当する艦船はない。2月1日、呉に到着[4]。
3月16日、呂49は呉を出港し、同日佐伯に到着。18日、佐伯を出港し南西諸島南東沖に進出[4]。同年3月25日、沖縄方面で状況を報告したのを最後に消息不明[1]。
アメリカ側記録では、26日午前、呂49は米第54任務部隊を発見。0932、米重巡洋艦ウィチタ(USS Wichita, CA-45)が右舷に潜望鏡を発見。呂49は魚雷を発射したが、ウィチタは右転舵によりこれを回避した。また、米軽巡洋艦セントルイス(USS St. Louis, CL-49)も魚雷の航跡を発見したが、命中しなかった。呂49は爆雷攻撃を受けるが、回避に成功して離脱した。それ以降、アメリカ側記録には呂49と思われる記録がなく、艦長の郷康夫大尉以下乗員79名全員行方不明(戦死認定)[5]。
4月15日、沖縄方面で亡失と認定され、5月25日に除籍された。
歴代艦長
[編集]艤装員長
[編集]- 不詳
艦長
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9