コンテンツにスキップ

ロビン・ベンチュラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロビン・ベンチュラ
Robin Ventura
2011年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サンタバーバラ郡サンタマリア
生年月日 (1967-07-14) 1967年7月14日(57歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
198 lb =約89.8 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 三塁手
プロ入り 1988年 MLBドラフト1巡目
初出場 1989年9月12日
最終出場 2004年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
五輪 1988年
オリンピック
男子 野球
1988 野球

ロビン・マーク・ベンチュラRobin Mark Ventura , 1967年7月14日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンタバーバラ郡サンタマリア出身の元プロ野球選手三塁手)、監督。右投左打。

経歴

[編集]

プロ入り前

[編集]

オクラホマ州立大学時代の1988年にアマチュア野球の最優秀選手賞にあたるゴールデンスパイク賞を受賞している。また、ソウルオリンピック公開競技として行われた野球競技にアメリカ合衆国代表として出場し、金メダルを獲得している。また、この年は第17回日米大学野球選手権[1]第30回IBAFワールドカップでも代表に選出されている。

プロ入りとホワイトソックス時代

[編集]

1988年のMLBドラフト1巡目(全体10位)でシカゴ・ホワイトソックスから指名され、プロ入り。

1989年前半は主に傘下のAA級バーミングハム・バロンズで過ごし、サザンリーグのオールスターに選出される。9月12日ボルチモア・オリオールズ戦でメジャーデビューを果たす。

1990年にはレギュラーに定着し、同年のアメリカンリーグ新人最多の150試合に出場。しかし、打撃ではシーズン途中に41打数連続無安打、守備では25失策を喫し、低調な成績に終わった。

1991年に打率.284、23本塁打、100打点を記録し、開花した。守備面も向上し、初のゴールドグラブ賞を受賞。以後、1993年までの3年連続を含め通算6回受賞した。

1992年には7月月間MVPを受賞し、打率.282、16本塁打、93打点。25歳の誕生日に行われたこの年のオールスターに初出場を果たし、二塁打と単打を放った。

1995年は最初の10試合で10失策を記録し、一時一塁を守ることになり守備面ではスランプに陥ったが、打撃ではこの時点での自己最高の打率.295を記録。同年9月4日には大リーグ史上8人目の1試合2満塁本塁打を記録。

1996年には自己最多の34本塁打をマークし、三塁手として4度目のゴールドグラブ賞を受賞した。

1997年は、故障のため54試合の出場に終わった。

1998年は5度目のゴールドグラブ賞を受賞したが打率.263と低調で、この年かぎりでホワイトソックスから移籍することになった。

メッツ時代

[編集]

1999年FAニューヨーク・メッツに移籍した。ナショナルリーグ初年度になったこの年は、自己唯一の打率3割(.301)、32本塁打、120打点(自己最多)、さらに通算6度目のゴールドグラブ賞受賞と攻守にわたる活躍でチームのワイルドカードでのプレーオフ進出に貢献。ディビジョンシリーズを勝ち上がってアトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズに進出。1勝3敗と追いこまれた第5戦(10月17日シェイ・スタジアム)は、2対2のまま延長戦に入る。15回表にブレーブスが1点を勝ち越すが、その裏、雨の中の攻撃でメッツは同点に追いつき、さらに満塁のチャンスでベンチュラが見事にサヨナラ満塁本塁打。と、思われたが、なだれ込んできたチームメイトの祝福を受けて、一塁を回ったところで進塁をやめたため、「フェンスオーバーのシングルヒット」という記録となった。この試合は今でも「Grand Slam Single」として知られている[2]。ただしチームは続く第6戦に敗れ、ワールドシリーズ進出はならなかった。

2000年は、打率.232に終わったが、24本塁打、83打点で再びワイルドカードでプレーオフ進出。今度はセントルイス・カージナルスを下してチーム14年ぶり、自身初のワールドシリーズ出場を果たす。ニューヨーク・ヤンキースとの「地下鉄シリーズ」では、第3戦でホームランを打って勝利に貢献するが、それが唯一の勝利となった。

2001年は、ブレーブスとの開幕戦で通算15本目の満塁本塁打を含む2本塁打を打つが、この年も2割3分台の不振に終わる。

ヤンキース時代

[編集]

2001年オフにデビッド・ジャスティスとのトレードで、ヤンキースへ移籍した。

2002年は、16本目の満塁本塁打を含む27本塁打、93打点を記録したが、打率は.247に終わった。

ドジャース時代

[編集]

2003年7月31日ウェイバー公示経由以外のトレード期限)に、スコット・プロクターバッバ・クロスビーとのトレードで、ロサンゼルス・ドジャースへ移籍した。

2004年には8月29日9月7日に満塁本塁打を打ち、通算18本(この時点でメジャー史上3位)とするが、この年限りで現役引退した。10月10日ディビジョンシリーズが最終戦となった。

引退後

[編集]

2012年シーズンより、5年契約でホワイトソックスの監督に就任。背番号は現役時代と同じ23番。

2016年10月2日レギュラーシーズン最終戦後、5年契約が満了となり、自ら退任を申し出た[3]

選手としての特徴

[編集]

250本塁打を打ち、なおかつゴールドグラブ賞を受賞した三塁手はメジャー史上5人しかいない[4]。また、三塁手としての通算1,887試合出場は、メジャー史上第14位(2006年終了時点)。90打点以上を8シーズン記録。三塁手としてはマイク・シュミットの11回、エディ・マシューズの10回についで3位タイである[5]。通算の長打率.444は、三塁手として通算1,500試合以上に出場した選手の中で歴代10位。

また、ドジャース時代の2003年に投手として1試合に登板している。1イニングを投げて被安打1、失点・自責点0で防御率は0.00。与四死球・奪三振も0であった。

キャリア初期は三振よりも四球の方が多かったが、長打力が増すにつれて、1994年以後は三振の方が多くなり、1999年には通算でも四球よりも三振の方が多くなった。

ノーラン・ライアンとの大乱闘

[編集]

1993年8月4日の対テキサス・レンジャーズ戦で、ベンチュラはレンジャーズ先発ノーラン・ライアンから死球を受けた。これに激高したベンチュラはライアンのもとへ駆け寄るが、逆にライアンにヘッドロックをかけられ、頭に6発もの殴打を一方的に浴びた。しかも、退場処分を下されたのはライアンではなく、殴られたベンチュラだった。

当時26歳のベンチュラと同46歳で球界の大投手であったライアンの大乱闘はファンの喝采を浴び、ベンチュラは同年オフのテレビ番組などに出演した。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1989 CWS 16 58 45 5 8 3 0 0 11 7 0 0 1 3 8 0 1 6 1 .178 .298 .244 .543
1990 150 565 493 48 123 17 1 5 157 54 1 4 13 3 55 2 1 53 5 .249 .324 .318 .643
1991 157 705 606 92 172 25 1 23 268 100 2 4 8 7 80 3 4 67 22 .284 .367 .442 .810
1992 157 694 592 85 167 38 1 16 255 93 2 4 1 8 93 9 0 71 14 .282 .375 .431 .806
1993 157 669 554 85 145 27 1 22 240 94 1 6 1 6 105 16 3 82 18 .262 .379 .433 .812
1994 109 474 401 57 113 15 1 18 184 78 3 1 2 8 61 15 2 69 8 .282 .373 .459 .832
1995 135 577 492 79 145 22 0 26 245 93 4 3 1 8 75 11 1 98 8 .295 .384 .498 .882
1996 158 674 586 96 168 31 2 34 305 105 1 3 0 8 78 10 2 81 18 .287 .368 .520 .888
1997 54 220 183 27 48 10 1 6 78 26 0 0 0 3 34 5 0 21 3 .262 .373 .426 .799
1998 161 674 590 84 155 31 4 21 257 91 1 1 1 3 79 15 1 111 10 .263 .349 .436 .785
1999 NYM 161 671 588 88 177 38 0 32 311 120 1 1 1 5 74 10 3 109 14 .301 .379 .529 .908
2000 141 551 469 61 109 23 1 24 206 84 3 5 1 4 75 12 2 91 14 .232 .338 .439 .777
2001 142 549 456 70 108 20 0 21 191 61 2 5 0 4 88 10 1 101 13 .237 .359 .419 .778
2002 NYY 141 562 465 68 115 17 0 27 213 93 3 1 0 5 90 9 2 101 14 .247 .368 .458 .826
2003 89 326 283 31 71 13 0 9 111 42 0 0 3 0 40 2 0 62 8 .251 .344 .392 .736
LAD 49 127 109 11 24 5 1 5 46 13 0 0 0 0 18 2 0 25 3 .220 .331 .422 .753
'03計 138 453 392 42 95 18 1 14 157 55 0 0 3 0 58 4 0 87 11 .242 .340 .401 .741
2004 102 175 152 19 37 3 0 5 55 28 0 0 0 1 22 1 0 31 3 .243 .337 .362 .699
MLB:16年 2079 8271 7064 1006 1885 338 14 294 3133 1182 24 38 33 76 1075 132 23 1179 176 .267 .362 .444 .806
  • 各年度の太字はリーグ最高

監督としての年度別成績

[編集]
年度 チーム 地区 年齢 試合 勝利 敗戦 勝率 順位/
チーム数
備考
2012年 CWS AL CENTRAL 44 162 85 77 .525 2 / 5
2013年 CWS AL CENTRAL 45 162 63 99 .389 5 / 5  
2014年 CWS AL CENTRAL 46 162 73 89 .451 4 / 5  
2015年 CWS AL CENTRAL 47 162 76 86 .469 4 / 5  
2016年 CWS AL CENTRAL 48 162 78 84 .481 4 / 5  
MLB 5年     810 375 435 .463    

表彰

[編集]
大学時代
  • ゴールデンスパイク賞(1988年)
MLB

記録

[編集]

満塁本塁打

[編集]

歴代の名三塁手との比較

[編集]

三塁手としてのシーズン90打点以上の回数。


三塁手としての通算長打率(三塁手として1,500打数以上)。

背番号

[編集]
  • 21(1989年)
  • 23(1990年 - 1998年、2003年途中 - 2004年、2012年 - 2016年)
  • 4(1999年 - 2001年)
  • 19(2002年 - 2003年途中)

代表歴

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 第17回 日米大学野球選手権(2018年10月6日閲覧)
  2. ^ この試合の13回裏登板したブレーブスのジョン・ロッカーが、メッツファンにバッテリーを投げつけられるトラブルが発生。のちのロッカーの問題発言へとつながる.
  3. ^ “ホワイトソックス、R.ベンチュラ監督が辞任の意向表明”. iSM (Yahoo!JAPAN). (2016年10月3日). オリジナルの2016年10月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161009143807/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161003-00000210-ism-base 2016年10月6日閲覧。 
  4. ^ 他に、ケン・ボイヤーロン・サント、ブルックス・ロビンソン、マイク・シュミットの4人。
  5. ^ 3位タイの8回は他にパイ・トレイナー、ケン・ボイヤー、ロン・サント。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]