ルネ・クレール
ルネ・クレール René Clair | |||||||||||
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本名 |
ルネ=リュシアン・ショメット René-Lucien Chomette | ||||||||||
生年月日 | 1898年11月11日 | ||||||||||
没年月日 | 1981年3月15日(82歳没) | ||||||||||
出生地 | フランス共和国 パリ | ||||||||||
死没地 | フランスの旗 フランス オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ | ||||||||||
職業 | 映画監督、脚本家、映画プロデューサー | ||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||
活動期間 | 1924年 - 1965年 | ||||||||||
配偶者 | ブローニャ・パールマッター | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
『巴里の屋根の下』 『自由を我等に』 | |||||||||||
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ルネ・クレール(René Clair, 本名:ルネ=リュシアン・ショメット(René-Lucien Chomette)、1898年11月11日 - 1981年3月15日) は、フランスの映画監督・脚本家・映画プロデューサーで「詩的リアリズム」の監督といわれる。
来歴
[編集]1898年11月11日、パリでルネ=リュシアン・ショメットとして生まれ、エミール・ゾラが「パリの胃袋」と呼んだ中央卸売市場のあったパリ1区レ・アル地区で育った。その後、リセ・モンテーニュ (fr) とリセ・ルイ=ル=グランで学んだ。第一次世界大戦では衛生兵として参加して救急車を運転した。戦後、ルネ・デプレ(René Després)の名でジャーナリストとなった。シャンソン歌手のダミアに歌詞を提供したことから、ダミアに紹介されて映画に出演した。出演した映画にロシアのヤーコフ・プロタザノフ監督の『死の意味』(1921年)、ルイ・フイヤード監督でサンクトペテルブルク出身のサンドラ・ミロヴァノフ主演の『孤児の娘』(1921年)があり、ロシア革命から逃げてきた白系ロシア人たちとの交流が生まれる。
1922年からブリュッセルで映画技法を学んだ。1924年、監督処女作となる『眠る巴里』 (Paris qui dort) 、次いでアバンギャルドの短編映画『幕間』を発表した。ロシア領ポーランド生まれの舞台装置家ラザール・メールソンなどと知り合う。以後、『巴里の屋根の下』(1930年)で「詩的レアリスム」の監督として評価されることになる。『自由を我等に』(1931年)[1]など、詩情と諧謔と風刺に溢れる多くの映画を発表した。喜劇の『最後の億万長者』(1934年)は日本では評価されたものの、失敗したことから映画プロデューサーのアレクサンダー・コルダに誘われて1935年からはイギリスに渡り、『幽霊西へ行く』(1935年)など2本の作品を発表した。
第二次世界大戦時にはハリウッドに移り、『奥様は魔女』(1942年)やアガサ・クリスティ原作の『そして誰もいなくなった』(1945年)など5本の作品を発表したが、ヴィシー政権からは国籍を剥奪された。戦後、1947年の『沈黙は金』でフランス映画界に復帰した。
その後も『悪魔の美しさ』(1950年)や『夜ごとの美女』(1952年)、『夜の騎士道』(1955年)などを発表し、高く評価された。1953年にはケンブリッジ大学から名誉教授号が授与された。同年、シネマフランセのグランプリを受賞した。1960年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出された。1970年には日本万国博覧会のために来日した。
1981年3月15日、ヌイイ=シュル=セーヌで死去した。
人物
[編集]ジャック・フェデー、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネと並んで、古典フランス映画における「ビッグ5」(「詩的リアリズム」)の一人として知られる。映画監督のアンリ・ショメットは兄弟である。
監督作品
[編集]- 幕間 - Entr'acte (1924年) 短編
- 眠るパリ Paris qui dort (1924年) 短編
- Le fantôme du Moulin-Rouge (1925年)
- Le voyage imaginaire (1926年)
- La proie du vent (1927年)
- イタリア麦の帽子 Un chapeau de paille d'Italie (1928年)
- Les deux timides (1928年)
- 巴里の屋根の下 Sous les toits de Paris (1930年)
- ル・ミリオン Le Million (1931年)
- 自由を我等に À nous la liberté (1931年)
- 巴里祭 Quatorze Juillet (1932年)- フランソワ・トリュフォーは『巴里の屋根の下』『『ル・ミリオン』を「パリ三部作」と呼び、「幸福な映画作家だったと言っていい」という[2]
- 最後の億萬長者 Le dernier milliardaire (1934年)
- 幽霊西へ行く The Ghost Goes West (1935年)
- Break the News (1938年)
- 焔の女 The Flame of New Orleans (1941年)
- 奥様は魔女 I Married a Witch (1942年)
- 提督の館 Forever and a Day (1943年)
- 明日を知った男 It Happened Tomorrow (1944年)
- そして誰もいなくなった And Then There Were None (1945年)
- 沈黙は金 Le Silence est d'or (1947年)
- 悪魔の美しさ La Beauté du diable (1950年)
- 夜ごとの美女 Les Belles de nuit (1952年)
- 夜の騎士道 Les Grandes manoeuvres (1955年)
- リラの門 Porte des Lilas (1957年)
- フランス女性と恋愛 La Française et l'Amour (1960年)
- Tout l'or du monde (1961年)
- Les fêtes galantes (1965年)
参考文献
[編集]- 中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社新書 2003年)
- Denise Bourdet, René Clair, dans: Pris sur le vif, Paris, Plon, 1957
- Barthélémy Amengual, René Clair, Paris, Seghers, 1963, coll. "Cinéma d'aujourd'hui".
- René Clair, catalogue de l'exposition du Palais de Chaillot, janvier-mars 1983, Paris, La Cinémathèque française.
- Olivier Barrot, René Clair ou Le Temps mesuré, Édition 5 Continents, 1985, coll. "Bibliothèque du Cinéma".
- Pierre Billard, Le Mystère René Clair, Paris, Plon, 1998.
- Noël Herpe, Le Film dans le texte : l'œuvre écrite de René Clair, Paris, Jean-Michel Place, 2001; (dir.) René Clair ou le cinéma à la lettre, AFRHC, 2000; numéro spécial de la revue 1895, AFRHC, 1998.
- Noël Herpe (dir.) et Emmanuelle Toulet (dir.), René Clair ou le cinéma à la lettre, Paris, AFRHC, 2000.
脚注
[編集]- ^ チャーリー・チャップリンの『モダン・タイムス』が酷似しているとドイツの製作会社トビス社 (Tobis Film) が告訴したが、証人に立ったクレールが「もし『モダン・タイムス』が自分の映画からヒントを得ているならば、光栄に思う」と証言して告訴は取り下げになった。
- ^ 山田宏一・蓮實重彦『トリュフォー 最後のインタビュー』(平凡社 2014年p.531)。
外部リンク
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前任 フェルナン・グレッグ |
アカデミー・フランセーズ 席次19 第20代:1960年 - 1981年 |
後任 ピエール・モワノー |