フォートオールバニの戦い (1709年)
フォートオールバニの戦い | |||||||
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アン女王戦争中 | |||||||
ハドソン湾会社のカヌー | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス王国 | ハドソン湾会社 | ||||||
指揮官 | |||||||
ニコラ・ダイユブー・ド・マンテ | ジョン・フラーティン | ||||||
戦力 | |||||||
民兵70、先住民兵30 | 不明 | ||||||
被害者数 | |||||||
18人戦死 | 2人戦死 | ||||||
フォートオールバニの戦い(フォートオールバニのたたかい、Battle of Fort Albany)は、1709年6月下旬(26日ごろ)に、ハドソン湾会社の交易所で、ハドソン湾南岸にあるフォートオールバニに、ヌーベルフランスの民兵と先住民兵がしかけた攻撃である。
概要
[編集]ハドソン湾会社設立から戦闘に至るまで
[編集]1670年の、イギリス(当時はイングランド王国)の投資家によるハドソン湾会社の設立で、ハドソン湾沿岸の毛皮交易はかなりの利益をあげていた。1680年代の始めまでには、ハドソン湾に流れ込む川の河口に交易所がいくつも建てられ、川の流域に住む先住民は、交易所に毛皮を持っていき、その見返りとして食料やヨーロッパからもたさられた品々を受け取った。その中には、武器や弾薬、その他様々なものがあった。[1][2]
ハドソン湾会社の繁栄に、ヌーベルフランス当局は警戒を強めた。自分たちが獲得した領地に、イギリスが侵略して来たおかげで、自分たちの毛皮交易とそれによる利益が痛手を受けていたからだ。元々、ハドソン湾近辺での毛皮に関しては、イギリスに寝返ったフランス人が情報をもたらしたせいで、イギリス有利にことが運んでいた[3]。ハドソン湾会社は、1686年のハドソン湾遠征(en:Hudson Bay expedition (1686))の開始から、9年戦争(北アメリカではウィリアム王戦争)の間、ヌーベルフランスからの侵入者から絶えず交易所を攻撃され、設備を略奪されたり、占領されたり、また、ヨーロッパへ出荷されるはずの毛皮を奪われたりした。9年戦争の末期には、フォートオールバニ(オールバニ川の河口に作られたためこの名がある、現在のオンタリオ州北部)が、唯一の交易所となっていた。[4]
スペイン継承戦争(北アメリカではアン女王戦争)が1702年に勃発し、イギリスの交易所であるフォートオールバニの侵略計画が持ち上がった。1709年、フランス人入植者の一団が、陸路でフォートオールバニを攻撃することに決めた。ヌーベルフランス総督であるフィリップ・ド・リゴー・ヴォードルイユもこれに同意し、身銭を切って、彼らのための資金を提供した。資金提供者たちは、奇襲隊が持ち帰るであろう毛皮で、出資分の埋め合わせができると考えていた。[5]この軍の指揮はニコラ・ダイユブー・ド・マンテに任された。この人物は、辺境での奇襲を何度も経験した強者で、修羅場を潜り抜けた前歴もあるといわれていたが、ハドソン湾近辺には足を踏み入れたことがなかった。[6] マンテは、60人から70人のフランス人と30人のカウグナガワ・モホークを招集して出発し、1709年の6月下旬にフォートオールバニの近くに到着した[7]。
戦闘
[編集]フォートオールバニには、ハドソン湾会社で、ジョン・フラーティンの下で働く雇い人たちが住んでいた。この雇い人たちは、かつてのヌーベルフランスの襲撃で捕虜となった経験があった。[8]フラーティンは、クリー族の交易者から、ヌーベルフランス軍の襲撃に気をつけるように言われており[9]、そのため、急襲への準備は怠りなかった。ただし、襲撃が断片的に行われていたため、いつ、何人で襲ってくるかはまでははっきりしなかった。[8] この戦いでわかっているのは、ヌーベルフランス側が完敗したこと、そしてマンテも、部下の副司令官も戦死したことである。フランスの戦死者は、この2人の指揮官も含めて18人だったが、一方ハドソン湾会社側は2人だった。この2人はフォートオールバニの中ではなく、そこに向かおうとしていて待ち伏せされたものだった。[8]
その後のハドソン湾会社と英仏競合
[編集]この年、ハドソン湾会社はフォートオールバニに船を寄越しておらず、ロンドンにいる会社の役員たちは、意外な方法でこの戦いのことを知った[8]。同じ1709年に、ヌーベルフランスへ探検隊を率いたものの、途中で挫折したイギリス領総督フランシス・ニコルソンが、翌年の遠征への支援を得るために、モヒカン族の族長を1人と、カウグナガワ・モホーク族の族長を3人ロンドンに派遣していたが[10] 、彼らは、ニコルソン総督の探検隊が戻る時にモントリオールにいて、この戦いについて知らされ、そのことを本社の役員に報告したのである[8]。フラーティンはこの戦いについて、1711年に、イギリス本国へ戻った時に報告書を整理したが、その書類は紛失してしまったようである[8]。
ヴォードルイユ総督は、フォートオールバニへの奇襲隊に資金を提供したことで、フランス本国の政府から総督としての責任を問われた[11] 。ハドソン湾会社は、1713年のユトレヒト条約により、すべての交易所を復活させ、イギリスのハドソン湾領有をフランスに認めさせたが、フランスとイギリスは、その後も交易をめぐって競り合うことになる[3]。
脚注
[編集]- ^ Statutes, Documents and Papers, p. 40
- ^ Krech, p. 39
- ^ a b 木村和男著 『毛皮交易が創る世界 ハドソン湾からユーラシアへ』 岩波書店、2004年、25-27頁。
- ^ Statutes, Documents and Papers, pp. 40–44
- ^ Lanctot, p. 159
- ^ Blain, Jean. “Biography of Nicolas d'Ailleboust de Manthet”. Dictionary of Canadian Biography Online. 2010年9月21日閲覧。
- ^ Lanctot, p. 159, claims the party was 90; Johnson claims the party was "about 100" with 30 Indians
- ^ a b c d e f Johnson, Alice. “Biography of John Fullartine”. Dictionary of Canadian Biography Online. 2010年9月20日閲覧。
- ^ Krech, p. 38
- ^ Drake, pp. 254–256
- ^ Charlevoix et al, p. 224
参考文献
[編集]- Charlevoix, Pierre-François-Xavier de; Shea, John Gilmary (trans) (1902), History and General Description of New France, Volume 5, London: Francis Edwards, OCLC 13380963
- Drake, Samuel Adams (1910) [1897], The Border Wars of New England, New York: C. Scribner's Sons, OCLC 2358736
- Krech, Shepard (1984), The Subarctic Fur Trade: Native Social and Economic Adaptions, Vancouver: University of British Columbia Press, ISBN 9780774803748, OCLC 228093218
- Lanctot, Gustave (1964), A History of Canada: From the Royal Regime to the Treaty of Utrecht, 1663–1713, Cambridge, MA: Harvard University Press, OCLC 640186350
- Statutes, Documents and Papers Bearing on the Discussion Respecting the Northern and Western Boundaries of the Province of Ontario, Toronto: Hunter and Rose, (1877), OCLC 29117888