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フィリップ・ド・シャンパーニュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィリップ・ド・シャンパーニュ
Philippe de Champaigne
自画像
生誕 1602年5月26日
神聖ローマ帝国ブリュッセル
死没 1674年8月12日
フランス王国パリ
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フィリップ・ド・シャンパーニュ『1662年の奉納画』パリ、ルーヴル美術館[1]
フィリップ・ド・シャンパーニュ『ヴァニタス』(1671年頃)

フィリップ・ド・シャンパーニュPhilippe de Champaigne, 1602年5月26日 - 1674年8月12日[2])は、バロック期のフランス派の画家

生涯

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シャンパーニュはブリュッセルの貧しい家に生まれた。風景画家ジャック・フーキエの弟子となって、1621年にフーキエとともに、パリに移った。そこでニコラ・プッサンと共にリュクサンブール宮殿の装飾を手掛けた。その指揮をしたのはニコラ・デュシェーヌで、シャンパーニュはその娘と結婚し、デュシューヌの後ろ盾を得た。

デュシェーヌの死後、シャンパーニュは母妃マリー・ド・メディシスリシュリュー枢機卿の下で働くことになり、枢機卿宮、ソルボンヌ教会の丸屋根、その他の建物の装飾を手掛けた。1648年には、王立絵画彫刻アカデミーの創立メンバーとなった。

1640年以降、シャンパーニュはジャンセニスムの影響下にあった。伝えられるところでは、娘の麻痺がポール・ロワイヤル修道院で奇跡的に治癒したというのである。それで、シャンパーニュは彼の代表作(ではあるが、彼らしくはない)『1662年の奉納画』(現在ルーヴル美術館所蔵)を描いた。その絵に描かれているのは、シャンパーニュの娘と女子修道院長のカトリーヌ=アニェス・アルノーである。

シャンパーニュは多くの作品を残したが、宗教画、肖像画が主だった。最初こそルーベンスの影響を受けていたが、後にはより禁欲的な作風になっていた。

シャンパーニュはパリで亡くなった。弟子には甥のジャン=バティスト・ド・シャンパーニュニコラ・ド・プラトモンターニュがいる。

発音

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本来の発音は「シャンパーニュ[ʃɑ̃paɲ]」であるが[3]、今日ではその綴り(Champaigne)に引っ張られて「シャンペーニュ[ʃɑ̃pɛɲ]」と発音(カタカナ表記)されることも多い[4]

脚注

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  1. ^ 宮下規久朗『欲望の美術史』光文社、2013年、95頁。ISBN 978-4-334-03745-1 
  2. ^ Philippe de Champaigne Flemish-born painter Encyclopædia Britannica
  3. ^ Pierret, Jean-Marie Phonétique historique du français et notions de phonétique générale , Peeters, Louvain-la-Neuve, 1994, p. 103.
  4. ^ Camus, Renaud Répertoire des délicatesses du français contemporain, P.O.L., 1999, p. 100. これは、たとえばモンテーニュ(『エセー』の著者)を本来の「モンターニュ」という発音で呼ぶことがほとんどなくなったのと同様の傾向である。本来の発音については、「oignon」(タマネギ)が「オワニョン」ではなく「オニョン」と発音されるように、「gn」の前の「i」がまれに無視される(黙字化する)例のひとつと言える。

外部リンク

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