ハニーカムズ
ザ・ハニーカムズ | |
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出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル | |
活動期間 | |
レーベル | |
旧メンバー |
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ザ・ハニーカムズ(英語: The Honeycombs)は、イギリスのロックバンドである。ジョー・ミークのプロデュースの下、1964年に「ハヴ・アイ・ザ・ライト」がミリオンセラーを記録し[2]、1965年に来日し、ライヴを行っている。バンドの中心的メンバーは、紅一点でドラムス、ボーカル担当のハニー・ラントリーである。
オリジナル・メンバー
[編集]名前 | プロフィール | 担当楽器 |
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デニス・デル (英語: Denis D'Ell) |
1943年10月10日[3] - 2005年7月6日(61歳没)[4] イングランド イーストエンド・オブ・ロンドン ホワイトチャペル |
リード・ボーカル ハーモニカ |
マーティン・マレイ[注釈 1] (英語: Martin Murray) |
1941年10月7日(83歳) イングランド イーストエンド・オブ・ロンドン |
リズムギター |
アラン・ワード (英語: Alan Ward) |
1945年12月12日(79歳) - イングランド ノッティンガム[2] |
リードギター |
ジョン・ラントリー (英語: John Lantree) |
1940年8月20日(84歳) - イングランド バークシャー州 ニューベリー[2] |
ベース |
ハニー・ラントリー (英語: Honey Lantree) |
1943年8月28日 - 2018年12月23日(75歳没)[5] イングランド ミドルセックス州ヘイズ[2] |
ドラムス ボーカル |
来歴
[編集]デビュー前
[編集]前身は、マレイがリーダーを務めていたザ・シェラトンズというバンド。ドラム担当のメンバーが脱退し、アンがドラムを担当する。シェラトンズのメンバー入れ替えにより、後のハニーカムズのオリジナル・メンバーの顔ぶれが揃う。
バンドはロンドンで活動を続け、既にイギリスのチャートトップ曲2曲をプロデュースしたジョー・ミークと出会う。
ミルドメイ・タバーンというロンドンのパブで後にハニーカムズに多数の曲を提供する作曲家デュオのケン・ハワードとアラン・ブレイクリーと出会い、ハニーカムズとコンビを組む。
そして、自宅にスタジオを構えていたミークの自宅でオーディションを行う。オーディションでバンドが演奏した曲は、後にチャートの首位を記録することになる「ハヴ・アイ・ザ・ライト」であった。
ハヴ・アイ・ザ・ライトのヒット
[編集]1964年、ハニーカムズはパイ・レコードからシングル「ハヴ・アイ・ザ・ライト」でデビューを飾る。前述した通り、この曲は同年7月にチャートの首位を記録する。
またこの曲はイギリス以外の国でもヒットする。カナダとオーストラリアでは1位、オランダで2位、アメリカで5位を記録するバンドの世界的なヒットとなった。更に、この曲はミリオンセラーを記録する。後にバンドはドイツ語バージョンの「ハヴ・アイ・ザ・ライト」を録音し、ドイツで21位を記録。
続く「イズ・イット・ビコーズ」、「アイズ」は好セールスには達しなかった。4枚目の、同じパイ・レコードに所属していたキンクスのレイ・デイヴィス作の「サムシング・ベター・ビギニング」は39位を記録。
デビュー曲の「ハヴ・アイ・ザ・ライト」が世界中で大ヒットしたことを受け、ハニーカムズは世界ツアーを敢行した。オーストラリアや極東でライヴを行った。更に日本でもライヴを行う。この模様は後に日本のみアルバム発売されている。イギリスに戻り、その日本での思い出を歌った「ラヴ・イン・トーキョー」という曲を録音している。
解散
[編集]人気グループになったハニーカムズだが、デルとハニーがボーカルを担当した「ザッツ・ザ・ウェイ」がイギリスで12位を記録して以後、シングルはチャートインしていない。
そしてデル、パイ、ワードの3 人が一気に脱退し、コリン・ボイド、ロッド・バドラー、エディ・スペンスの3人が加入する。ボイド作のラスト・シングル「ザット・ラヴィング・フィーリング」を1966年に発売。
1967年2月3日、プロデューサーだったミークの猟銃自殺により、ハニーカムズは新曲のレコーディングを止め、解散に至る。
再結成した二つのハニーカムズ
[編集]1990年代に、ハニーカムズは再結成を果たす。
しかし、それは元リーダーのマーティン・マレイが主要メンバーのハニーカムズと、デニス・デルとピーター・パイ、ジョンとハニーのラントリー兄妹がメンバーのハニーカムズであり、結果として二つのバンドが出来てしまった。
まず前者の方は、イタリアの起業家がマレイにハニーカムズを復活させてほしいとしていた。マレイは他のメンバーと相談したが、結局全員に断られ、新たにメンバーを募集して活動を始める。2010年代に入っても活動を続けている。
一方後者の方は、残りのメンバーが集まって、新たにポール・マッカートニー率いるウイングスの「007 死ぬのは奴らだ (曲)」を録音。1994年にはデビュー30周年を記念してコンサートを行っている。
ディスコグラフィ
[編集]シングル
[編集]全てパイ・レコードから発売。
発売年 | A面 | B面 | 最高位 (UK) [6] |
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1964年 | Have I The Right | Please Don't Pretend Again | 1位 |
1964年 | Is It Because | I'll Cry Tomorrow | 38位 |
1964年 | Eyes | If You've Got To Pick A Baby | - |
1965年 | Something Better Beginning | I'll See You Tomorrow | 39位 |
1965年 | That's The Way | Can't Get Through To You | 12位 |
1965年 | This Year, Next Year | Not Sleeping Too Well Lately | - |
1966年 | Who Is Sylvia | How Will I Know | - |
1966年 | It's So Hard | I Fell In Love | - |
1966年 | That Loving Feeling | Should A Man Cry | - |
アルバム
[編集]- 1964年 - The Honeycombs
- 1965年 - All Systems - Go!
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c Phares, Heather. The Honeycombs | Biography & History - オールミュージック. 2021年1月8日閲覧。
- ^ a b c d Murrells 1978, p. 176-177.
- ^ “Dennis D'Ell - Obituaries”. The Independent (Independent News & Media). (2005年7月22日) 2021年1月8日閲覧。
- ^ Clayson, Alan (2005年7月18日). “Denis D'Ell”. The Independent. Independent News & Media. 2021年1月8日閲覧。
- ^ “Honey Lantree, Drummer of British Invasion Group The Honeycombs, Passes”. Celebrity Access (DIGITTO Media). (2018年12月26日) 2021年1月8日閲覧。
- ^ “HONEYCOMBS | full Official Chart History”. Official Charts Company. 2021年1月8日閲覧。
参考文献
[編集]- Murrells, Joseph (1978). The Book of Golden Discs (2nd ed.). London: Barrie and Jenkins Ltd. pp. 176–177. ISBN 0-214-20512-6