ゲルトルート・フォン・ザクセン (1030-1113)
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ゲルトルート・フォン・ザクセン Gertrud von Sachsen | |
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出生 |
1030年ごろ |
死去 |
1113年8月4日 |
配偶者 | ホラント伯フロリス1世 |
フランドル伯ロベール1世 | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ビルング家 |
父親 | ザクセン公ベルンハルト2世 |
母親 | アイリカ・フォン・シュヴァインフルト |
ゲルトルート・フォン・ザクセン(ドイツ語:Gertrud von Sachsen, 1030年ごろ - 1113年8月4日)は、ホラント伯フロリス1世の妃、のちフランドル伯ロベール1世の妃。また、1061年から1067年まで、幼年の息子ディルク5世のためホラントの摂政を、1086年から1093年まで夫の不在の間にフランドルの摂政をつとめた。
生涯
[編集]ゲルトルートはザクセン公ベルンハルト2世と、ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルトの娘アイリカの間に生まれた[1]。
1050年ごろ、ホラント伯フロリス1世と結婚した[2]。1061年に夫が死去したのち、息子ディルク5世がホラント伯となり[2]、ゲルトルートが摂政をつとめた。
ディルク5世がホラント伯位についたとき、ユトレヒト司教ウィレム1世はこの状況を利用して、ホラントの領地を占領した。ゲルトルートとディルク5世はフリースラントに退き、ウィレム1世は領地を占領し続けた。
1063年、ゲルトルートはフランドル伯ボードゥアン5世の次男ロベールと再婚した[3]。この結婚により、ディルク5世にスヘルデ川西岸のフリースラントを含むフランドル帝国領が領地として与えられた。
その後、夫ロベールはゲルトルートとともに幼年のディルク5世の摂政をつとめた。また、フランドル伯となったロベールが1086年から1093年までエルサレムに向かった際には、夫の留守の間フランドルの摂政もつとめた。
子女
[編集]- アルベール(1051年ごろ生) - リエージュの司祭
- ディルク5世(1052年ごろ - 1091年) - ホラント伯
- ピエール(1053年ごろ生) - リエージュの司祭
- ベルタ(1055年ごろ - 1093年) - フランス王フィリップ1世と結婚[2]
- フロリス(1055年ごろ生) - リエージュの司祭
- マティルド(1057年ごろ生)- クロスタラート伯アダルベルト1世・フォン・サッフェンブルクと結婚
- アデル(1061年ごろ生) - ギネ伯ボードゥアン1世と結婚
- ロベール2世(1065年ごろ - 1111年)[3] - フランドル伯
- アデル(1064年ごろ - 1115年) - はじめデンマーク王クヌーズ4世妃[3]、のちプッリャ公ルッジェーロ・ボルサ妃。シャルル1世の母。
- ジェルトリュード(1070年ごろ - 1117年) - ルーヴァン伯アンリ3世妃、のちロレーヌ公ティエリー2世妃[3]。ティエリー・ダルザスの母。
- フィリップ・ファン・ロー(1127年以前没) - 庶子のウィレム・ファン・イーペルはフランドル伯位を主張した
- オジーヴ - メシーヌの修道女
脚注
[編集]- ^ Rider 2013, p. 65.
- ^ a b c Nicholas 1999, p. 117.
- ^ a b c d Nicholas 1999, p. 113.
参考文献
[編集]- Nicholas, Karen S. (1999). “Countesses as Rulers in Flanders”. In Evergates, Theodore. Aristocratic Women in Medieval France. University of Pennsylvania Press
- Rider, Jeff (2013). “Vice, Tyranny, Violence, and the Usurpation of Flanders (1071) in Flemish Historiography from 1093 to 1294”. Violence and the Writing of History in the Medieval Francophone World. Boydell & Brewer