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アスラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アスラサンスクリット: असुर Asura)とは、インド神話において神々(デーヴァ)と対立する存在をいう。

概要

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乳海攪拌を描いたアンコール・ワットの浮き彫りに見られるアスラのひとり

ヴェーダ時代の古代インドにおいてアスラは単に「主」という意味であって、神(デーヴァ)の称号として用いられた。とくに目立った例としては『リグ・ヴェーダ』8.25の例があり、ここではミトラヴァルナの2神を「デーヴァにしてアスラ」(devāv asurā, 双数形)と呼んでいる[1]

ヴェーダの散文時代になるとデーヴァとアスラは対立し、戦いあう存在としてとらえられるようになり、肯定的な側面をデーヴァが、否定的な側面をアスラが代表するようになった[1]。「アスラはア(a=非)・スラ(sura=生)である」という俗語源説も、この転回から生まれた。

ラーマーヤナ』巻3では、ダクシャから生まれた60人の娘のうちアディティディティダヌら8人がリシカシュヤパと結婚し、アディティがアーディティヤ12神ヴァス8神ルドラ11神、アシュヴィン双神の33神を生んだ一方、ディティからダイティヤ、ダヌからはダーナヴァが生まれたとする[2]。アスラは主にダーナヴァとダイティヤの総称として使われる(カシュヤパ仙の憎しみから生まれたヴリトラや、シヴァの破壊衝動から生まれたジャランダラなどもアスラとして扱われているため、必ずしもこの限りではない。またアンダカのようなシヴァの里子も存在する)。ただしすべてのアスラ神族がデーヴァ神族の敵対者ではない。プラフラーダバーナースラのようなアスラもいる。ガヤのように人々の罪を洗浄するアスラ神族もいる。

アスラ神族はヒラニヤプラパーターラといった地下の黄金郷に住むことが多い。

アスラ神族はデーヴァ神族のようにアムリタを飲んではいないため、不死・不滅の存在ではないが、自らに想像を絶する厳しい苦行を課すことによって神々をも超越する力を獲得し、幾度となくデーヴァ(神々)から世界の主権を奪うことに成功している。そして中にはマハーバリジャランダラのように人間に善政を敷いたアスラ神族も多い。もちろんアスラ神族には人々に圧政を敷いたトリプラースラシュンバ・ニシュンバ兄弟王もいる。中には例外も居てシュシュナのようにアムリタを隠し持っていたアスラもいた[3]

アスラは仏教に取り込まれ、漢訳仏典では音訳して「阿修羅」、略して「修羅」とも呼ばれる。

イランのアフラとの関係

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アスラという語はイランにおけるアフラの同系語である。『リグ・ヴェーダ』におけるミトラ・ヴァルナの併称はアヴェスターにおけるミスラとアフラの併称と関係があり、ヴェーダにおいて実際ヴァルナはとくにアスラの称号をもってよばれることが多い[4]:196。インドでは後にアスラがデーヴァに対立する否定的存在となったのに対し、イランでは逆にデーヴァに対応するダエーワが悪神とされ、アフラの方がアフラ・マズダーのように最高神とされている。両者の関係がインドとイランで逆であることが何らかのインドとイランの対立関係を反映すると考える余地はあるものの、『リグ・ヴェーダ』でまだアスラが悪神になっていないために困難がある[1]

主要なアスラ

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アスラと仏陀の関係

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宮坂宥勝(高野山大学)は、

悪魔であるアスラをそそのかして神々に戦いをいどんだものは「幻影によって欺瞞する者」(Māyāmoha)すなわち仏陀である。アスラはひとたびは[5]神々を打破することが出来た。が、最後に神々はヴィシュヌ神の助力を仰いでアスラを征伐する。そしてこの「幻影によって欺瞞する者」といえどもヴィシュヌ神の身体(胎内)から生じたものにすぎないのであり、それをヴィシュヌは最高の神々に与えたのであった[6] — 宮坂 宥勝、 「アスラからビルシャナ仏へ」1960(47)、『密教文化』1960年、p.21

と述べている。

松濤誠達(大正大学)は、

また時にブッダ(Buddha-)とされまたマーヤー・モーハー(Māyāmoha)とされるところのヴィシュヌのアヴァターラも、妄説を説くといういわばダーティー・プレイを通じてアスラと目されるジャイナ教徒や仏教徒を地獄に追い落とす点でトリックスターと見ることができる。 — 松濤 誠達、 「古代インド神話解釈の試み -古代インドのトリックスター論覚え書き」24(2)、『印度学仏教学研究』1960年、p.559

と述べている。 したがってヒンズー側から見て仏教はアスラの側である。

史実のアスラ

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アスラ族は何も神話上の存在とは限らない。冨田真浩(日本大学)は『杉本(1984, 203)[7]には「現在のビハール州南部のチョータナグプール高原一帯にアスラと呼ばれる少数民族が存在する」とあり,ガヤーから,100 kmほど南に位置する場所に,「人間のアスラ族」が実在していることが示されている.』と記述している[8]

冨田真浩(日本大学)はさらに、『大唐西域記』第9巻にも史実のアスラ族が登場することを指摘する。

仏陀伐那山[9]から東に30里,空の谷を行くと伺林に至り,伺林から西南に10余里にある大きな山の南に温泉が二か所ある[10].伺林から南東に6, 7里で横に峰の延びる大きな山に至る.その大きな山から北へ3, 4里行くと離れ山があり,その山から更に東北に4, 5里行ったところに小さな離れ山がある.山壁の石室は広々としており,1000余人が坐れるほどである.石室の上には大きな岩がある.石室の南西の隅に,岩穴がある.インドではこれをアスラ宮という.近頃,術士と,彼が招いた13人の友人という物好きな一団が,その岩穴に入り3,40里進むと明るい場所に出て,金銀瑠璃でできた町や村があり,門の側に佇む少女に丁寧に迎えられ,町の門まで来ると「沐浴して香・花を冠に塗ってから入るように,ただし術士はそのまま進むように」と言われた.術士以外の13人は池で沐浴すると恍惚とし我を忘れ,いつの間にか小さな離れ山から北へ平坦な川を3, 40里も進んだ場所にある稲田の中に坐っていたという.ヴェーダ聖典に記されていた史実のアスラが居たと考えられるのはインド東部のガンジス川流域だと考えられ,仏陀伐那周辺も該当地域といえる. — 冨田 真浩、 「神話上のアスラと史実のアスラ」『印度學佛敎學硏究』第 69 巻 第 1 号 2020年 p460

と述べている。なお冨田真浩氏によると『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』では、アスラ宮は清弁論師の住んだ場所とも指摘している[11]

脚注

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  1. ^ a b c The Rigveda: The Earliest Religious Poetry of India. translated by Stephanie W. Jamison and Joel P. Brereton. Oxford University Press. (2017) [2014]. p. 37. ISBN 9780190685003 
  2. ^ Muir, John (1868). Original Sanskrit Texts on the Origin and History of the People of India. 1 (2nd ed.). London: Trübner & co.. pp. 115-117. https://archive.org/details/originalsanskrit01muir/page/114/mode/2up 
  3. ^ 松濤誠達「古代インド神話解釈の試み -古代インドのトリックスター論覚え書き」『印度学仏教学研究』 24(2)、1976年、p42.より
  4. ^ Winternitz, Moriz (1927). A History of Indian Literature. 1. translated by S. Ketkar. University of Calcutta. https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.97551/page/n101/mode/2up 
  5. ^ 原文ママ
  6. ^ ヒンズー教徒にとってブッダはヴィシュヌの第9のアバターである
  7. ^ 杉本卓洲 1984『インド仏塔の研究―仏塔崇拝の生成と基盤―』平楽寺書店
  8. ^ 冨田真浩「神話上のアスラと史実のアスラ」『印度學佛敎學硏究』第 69 巻 第 1 号 2020年 p460より
  9. ^ 「Buddhavana」表記
  10. ^ いわゆる温泉精舎の事
  11. ^ 冨田真浩「神話上のアスラと史実のアスラ」『印度學佛敎學硏究』第 69 巻 第 1 号 2020年 p457.より

参考文献

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  • 松濤誠達「古代インド神話解釈の試み -古代インドのトリックスター論覚え書き」『印度学仏教学研究』 24(2)、1976年
  • 宮坂宥勝「アスラからビルシャナ仏へ」1960(47)、『密教文化』1960年
  • 冨田真浩「神話上のアスラと史実のアスラ」『印度學佛敎學硏究』第 69 巻 第 1 号 2020年
  • 杉本卓洲『インド仏塔の研究―仏塔崇拝の生成と基盤―』平楽寺書店 1984年

関連項目

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