中学校社会 歴史/欧米の近代国家建設
近代国家
[編集]19世紀に入り、産業革命やフランス革命がおこると、欧米では近代国家(国民国家・近代国民国家)の建設が進みました。
近代国家とは、国に住む文化や価値を共有している人々を、自由や平等といった考えの下で「国民」として一つにまとめる国家のことです。
近代国家では、国民から兵士を集め(徴兵制)、「国民軍」が作られました。
このページでは、そんな近代国家の建設を進めた国々を紹介します。
ドイツの統一
[編集]ドイツは19世紀の半ばまで、数十か国の国々に分かれていました(小国の分立が続いていた)。その中で特に大きな影響力を持っていたのが、プロイセン王国です。プロイセンは、首相であったビスマルクのもとでドイツの統一を進めました。下記の文は、そんなビスマルクが議会で行った演説の一部です。
“ 現下の大問題(ドイツ統一問題)の解決は、演説や多数決によってではなく、(中略)鉄と血によってのみなされるのです。”
鉄は武器を、血は兵隊を表します。ビスマルクはドイツの武力による統一を目指し、プロイセンの軍事力を強化させていきました。(このことを、
(またこのため、ビスマルク本人は「鉄血宰相」(てっけつ さいしょう)とも呼ばれました。)
1871年、ドイツ統一に反対したフランスとの戦争(普仏戦争)に勝利したプロイセンは、ドイツ統一を達成。プロイセン国王ヴィルヘルム一世を皇帝として、「ドイツ帝国」を成立させました。
※プロイセン王国自体は、ドイツ帝国を構成する国として存続しました。
ドイツ帝国の成長
[編集]ドイツ帝国では、新しい憲法(ビスマルク憲法)や帝国議会を整備し、近代国家の建設を進めました。
そんなドイツの宰相となったビスマルクは政治の実権を握り、重工業を中心に工業や軍事力を強化。イギリスと肩を並べる大国へと成長しました。力を蓄えたドイツは、のちに世界進出を目指すようになります。
ちなみに、ドイツ帝国の憲法は大日本帝国憲法の手本とされたりもしました。(日本の立憲政治のはじまりも参照のこと。)
発展:ビスマルク外交
[編集]※この項目は中学校の範囲外です。
普仏戦争の際、ドイツはフランスの領土であるアルザス・ロレーヌ地方を自国の領土としました。フランスがこの地方の奪還のため戦争を仕掛けることがないよう、ビスマルクはフランスを国際社会から孤立させるように外交関係を築きました。 これを、「ビスマルク外交」といいます。
<ドイツの外交関係>
- 三国同盟…ドイツ・イタリア・オーストリアの三国で結んだ同盟。
- 三帝同盟…ドイツ・オーストリア・ロシアの三国で結んだ同盟。
1890年にビスマルクが失脚すると、フランスはロシアとの同盟などを通して孤立状態を脱していきます。
イタリアの統一
[編集]イタリアは、ドイツと同様に19世紀半ばまで小国に分裂しており、フランスやオーストリアなどの大国に翻弄されてきました。
そのような状況の中、イタリアを統一しようと行動に出たのが、サルデーニャ王国です。サルデーニャ王国は統一に反対するオーストリアなどとの戦争を通し、1861年に「イタリア王国」を成立させます。イタリア王国は、1870年までにヴェネツィアや教皇領(ローマ)などを併合し、イタリアのほとんどを統一しました。
未回収のイタリア
[編集]しかし、イタリアには統一の際に回収できなかった地域がオーストリア領に残っていました。この地域のことを「未回収のイタリア」と呼びます。北イタリアの南チロル地方や、現在のクロアチアの一部であるトリエステがそれにあたります。この地域をイタリア領とすることは、イタリア王国の悲願でした。このことがその後の争いの火種となっていきます。
ロシア帝国の改革と拡大
[編集]19世紀、皇帝の専制(独裁)政治であったロシア帝国には、不凍港(冬に凍らない港)がありませんでした。そのため、冬でも港が凍らない、地中海や黒海へ領土を広げようと画策していました。しかし、そのためにはロシアの南にあるオスマン帝国を打ち倒さなければなりません。そこで、ロシアはオスマン帝国に対してクリミア戦争を起こしました。このような、ロシア帝国の南への拡大を目指す政策のことを「南下政策」といいます。
しかし、クリミア戦争はロシアを警戒した英仏にさまたげられ敗北。地中海・黒海方面への進出は失敗に終わりました。こうして、ロシアは近代化・工業化の遅れを実感するようになりました。
ロシア帝国の近代化改革
[編集]近代化の遅れを感じたロシアは、近代化へ向けた改革を進めるようになります。
※行われた改革の内容は、覚えなくても良い。
- 農奴解放…農奴(領主に従い土地を耕作していた農民)を領主から解放したが、形式的なものにとどまった。
- 地方自治体の設置…「ゼムストヴォ」といわれる地方自治体を設置。
しかし、改革の効果はそこまで発揮されず、憲法や議会は整備されないままでした。このような状況で、ロシアでは徐々に社会主義が台頭していきます。
アジアでの南下政策
[編集]欧州方面での南下に失敗したロシアは、次にアジアでの南下を目指しました。
中央アジア・西アジアへの進出
[編集]ロシアは、中央アジアの「トルキスタン」と呼ばれる地域の国々を征服。
ペルシャ(現在のイラン)にも攻撃をしかけ、領土の拡大・不平等条約の締結などを行いました。
東アジアへの進出
[編集]※帝国主義の世界も参照のこと。
1860年までに、ロシアは清との間にも条約を締結。清の領土であった沿海州などをロシア領としました。
ロシアはさらなる東アジアでの拡大を狙い、同じく東アジアでの拡大を狙う日本やイギリスと対立していくことになります。