黒羽根秀雄
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黒羽根 秀雄(くろばね ひでお、1882年〈明治15年〉8月 - 1927年〈昭和2年〉4月9日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。「韓崎」艦長。「鶴見」特務艦長。「対馬」艦長。山形県東田川郡手向村(現・鶴岡市羽黒町)出身。
黒羽根 秀雄 | |
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1882年–1927年4月9日 | |
生誕 | 山形県東田川郡手向村 |
最終階級 | 海軍大佐 |
指揮 |
「浅間」分隊長 「対馬」艦長 |
戦闘 | 青島の戦い |
勲章 | 勲三等瑞宝章 |
墓所 | 山形県鶴岡市羽黒町手向 |
経歴
編集- 1882年(明治15年)8月 - 壇所院院主・黒羽根此面の長男として生れる。
- 荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業
- 1901年(明治34年)12月 - 海軍兵学校入学。同期生に山本五十六、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾、堀悌吉、井上継松、大野寛と、同郷手向村出身の大澤玄養などがいた。
- 1904年(明治37年)11月14日 - 海兵(32期)を卒業する(卒業成績192名中139番)[2]。海軍少尉候補生となる。
- 韓崎乗組み。日露戦争では樺太方面に従軍。
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)12月10日 - 富士乗組み被免、橋立乗組み被仰付[5]
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)4月20日 - 海軍水雷学校普通科学生被免、朧乗組み被仰付[10]。
- 1909年(明治42年)2月20日 - 朧乗組み被免、対馬組み被仰付[11]。
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1912年(明治45年)5月22日 - 海軍砲術学校特修科学生教程卒業、補 対馬分隊長[18]。
- 1913年(大正2年)8月10日 - 免 対馬分隊長、補 浅間分隊長[19]。
- 1914年(大正3年) - ドイツへの宣戦布告に伴う戦役にて、第一南遣枝隊として南洋及び南米方面巡航索敵の任に当たる。
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)12月1日 - 任 海軍少佐、免 横須賀海兵団分隊長、補 春日砲術長[22]。
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)12月1日 - 任 海軍中佐、補 須磨副長[26]。
- 1921年(大正10年)7月16日 - 免 須磨副長、補 海軍兵学校教官兼監事[27]
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)11月18日 - (財)呉海軍下士官兵集会所が設立され理事就任[32]。
- 1925年(大正14年)
- 佐世保海軍人事部長を経る。
- 1926年(大正15年)
- 1927年(昭和2年)
- 没後、手向村の子供たちの間では『かんから餅 かんから餅 黒羽根大佐が死んだ』という歌が流行る。
栄典
編集- 位階
- 1905年(明治38年)10月4日 - 正八位[43]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 従七位[44]
- 1911年(明治44年)2月20日 - 正七位[45]
- 1916年(大正5年)3月10日 - 従六位[46]
- 1921年(大正10年)1月20日 - 正六位[47]
- 1926年(大正15年)1月15日 - 従五位[48]
- 1927年(昭和2年)4月9日 - 正五位[49]
- 勲章等
家族親族
編集- 曾祖父:大山北李 - 庄内藩士、絵師、葛飾北斎の弟子
- 伯祖父:大山庄太夫 - 庄内藩士、留守居役
- 祖父:白井半内 - 酒田士族
- 従兄弟:服部五老 - 南画家
- 従兄弟:松平穆堂 - 書家
- 再従甥:服部二柳 - 南画家
- 再従甥:齋藤真成 - 真正極楽寺(真如堂)第53世貫主、洋画家、元・京都教育大学教授
- 父:黒羽根此面 - 黒羽根家始祖、旧姓・白井、修験者、壇所院院主
- 長男:黒羽根忠雄 - 医学博士、医師
- 孫(忠雄・長男):黒羽根生自 - 医学博士、医師
- 孫(忠雄・長女):黒羽根克子 - 湯浅和男(医学博士、医師)妻
- 孫(忠雄・次男):黒羽根革躬 - 医学博士、医師
- 次男:黒羽根節雄 - 海軍軍医、医師
- 孫(節雄・長男):黒羽根秀機 - 医学博士、医師
- 孫(節雄・次男):黒羽根洋司 - 整形外科医師、エッセイスト
脚注
編集- ^ 『官報』第88号「彙報-官吏卒去」1927年4月18日。
- ^ 『官報』第6414号「叙任及辞令」1904年11月15日。
- ^ 『官報』第6653号「叙任及辞令」1905年9月1日。
- ^ 『官報』第6737号「叙任及辞令」1905年12月13日。
- ^ 『官報』第7036号「叙任及辞令」1906年12月11日。
- ^ 『官報』第7231号「叙任及辞令」1907年8月6日。
- ^ 『官報』第7277号「叙任及辞令」1907年9月30日。
- ^ 『官報』第7935号「彙報-陸海軍-卒業証書及証状授与」1909年12月4日。
- ^ 『官報』第7342号「叙任及辞令」1907年12月17日。
- ^ 『官報』第7442号「叙任及辞令」1908年4月21日。
- ^ 『官報』第7694号「叙任及辞令」1909年2月22日。
- ^ 『官報』第8037号「叙任及辞令」1910年4月11日。
- ^ 『官報』第8235号「叙任及辞令」1910年12月2日。
- ^ 『官報』第8314号「叙任及辞令」1911年3月13日。
- ^ 『官報』第8331号「叙任及辞令」1911年4月4日。
- ^ 『官報』第8382号「叙任及辞令」1911年6月2日。
- ^ 『官報』第8536号「叙任及辞令」1911年12月2日。
- ^ 『官報』第8676号「叙任及辞令」1912年5月23日。
- ^ 『官報』第310号「叙任及辞令」1913年8月11日。
- ^ 『官報』第1011号「叙任及辞令」1915年12月14日。
- ^ 『官報』第1017号「宮廷録事」1915年12月21日。
- ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1916年12月2日。
- ^ 『官報』第2096号「叙任及辞令」1919年7月31日。
- ^ 『官報』第2150号「叙任及辞令」1919年10月3日。
- ^ 『官報』第2188号「宮廷録事」1919年11月19日。
- ^ 『官報』第2501号「叙任及辞令」1920年12月2日。
- ^ 『官報』第2689号「叙任及辞令」1921年7月18日。
- ^ 『官報』第3276号「叙任及辞令」1923年7月2日。
- ^ 『官報』第3335号「叙任及辞令」1923年10月3日。
- ^ 『官報』第3347号「叙任及辞令」1923年10月18日。
- ^ 『官報』第3528号・号外「法人登記」1924年5月29日。
- ^ 『官報』第3776号「法人登記」1925年3月27日。
- ^ 『官報』第3796号「叙任及辞令」1925年4月21日。
- ^ 『官報』第3879号「法人登記」1925年7月28日。
- ^ 『官報』第3914号「法人登記」1925年9月9日。
- ^ 『官報』第3948号「叙任及辞令」1925年10月21日。
- ^ 『官報』第3982号「叙任及辞令」1925年12月2日。
- ^ 『官報』第121号「叙任及辞令」1926年5月21日。
- ^ 『官報』第4157号「叙任及辞令」1926年7月2日。
- ^ 『官報』第4283号「叙任及辞令」1926年12月2日。
- ^ 『官報』第65号「叙任及辞令」1927年3月22日。
- ^ 『官報』第75号「叙任及辞令」1927年4月2日。
- ^ 『官報』第6682号「叙任及辞令」1905年10月5日。
- ^ 『官報』第7329号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第8297号「叙任及辞令」1911年2月21日。
- ^ 『官報』第1081号「叙任及辞令」1916年3月11日。
- ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。
- ^ 『官報』第4066号「叙任及辞令」1926年3月17日。
- ^ 『官報』第85号「叙任及辞令」1927年4月14日。
- ^ 『官報』第7005号「叙任及辞令」1906年11月2日。
- ^ 『官報』第8533号「叙任及辞令」1911年11月29日。
- ^ 『官報』第251号・付録「辞令」1913年6月2日。p2
- ^ 『官報』第979号「叙任及辞令」1915年11月4日。
- ^ 『官報』第1411号・付録「辞令」1917年4月18日。
- ^ 『官報』第2949号・号外「辞令」1922年6月2日。
- ^ 『官報』第2566号・付録「叙任及辞令」1921年2月23日。
- ^ 『官報』第2614号「叙任及辞令」1921年4月21日。
関連項目
編集参考文献
編集- 黒羽根洋司『懐かしき人々 - 父の父たちの物語 - 』1999年(平成11年)。