パトリック・タンベイ
パトリック・ダニエル・タンベイ(Patrick Daniel Tambay, 1949年6月25日 - 2022年12月4日)は、フランスの元レーシングドライバー、モータースポーツ解説者、政治家。1977年・1980年のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップチャンピオン。
パトリック・タンベイ Patrick Tambay | |
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1983年撮影 | |
基本情報 | |
フルネーム |
パトリック・ダニエル・タンベイ Patrick Daniel Tambay |
国籍 | フランス |
出身地 | 同・パリ |
生年月日 | 1949年6月25日 |
死没地 |
フランス パリ |
没年月日 | 2022年12月4日(73歳没) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1977-1979,1981,1982-1986 |
所属チーム |
'77 サーティース '77 エンサイン '78-'79 マクラーレン '81 セオドール '81 リジェ '82-'83 フェラーリ '84-'85 ルノー '86 ローラ |
出走回数 | 123 (114スタート) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 2 |
表彰台(3位以内)回数 | 11 |
通算獲得ポイント | 103 |
ポールポジション | 5 |
ファステストラップ | 2 |
初戦 | 1977年フランスGP |
初勝利 | 1982年ドイツGP |
最終勝利 | 1983年サンマリノGP |
最終戦 | 1986年オーストラリアGP |
カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ以外に、F1をはじめ、多くのカテゴリーで実績を残した。
プロフィール
編集初期の経歴
編集母国のレーシングスクール、「ラ・フィリエール」の出身。卒業時には当時の最高成績を残しており、将来を大いに期待されていた。
フォーミュラ・ルノーを経て、1974年よりヨーロッパF2に参戦。1975年のランキング2位が最高となり、チャンピオンは獲得できなかったが、活躍が認められいくつかF1チームと交渉があった。1977年6月には来日し全日本F2000選手権・富士にスポット参戦している[1]。
F1
編集F1初エントリーとなった1977年第7戦フランスGPではサーティースから参戦するも決勝に進出できず、翌第8戦イギリスGPからはエンサインより出走し、下位チームながら3度の入賞を果たした。10月の第17戦日本グランプリ(富士)にもエンサインから出走しており、同年二度目の来日となった。
前年の走りが認められ、1978年からマクラーレンへ移籍するがチームは低迷期を迎え、No.1ドライバーのジェームス・ハントともども苦戦を強いられた翌1979年にはさらに低迷してノーポイントに終わり、1980年はF1シートを喪失する。
1980年はアメリカで2度目のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップチャンピオンとなり、1981年に古巣セオドールからF1に復帰。開幕戦アメリカ西GPで入賞を果たすものの、その後は下位チームゆえに苦戦を強いられ、中盤にはフランスのリジェのシートを得て移籍する。しかし、リジェでも全戦リタイアに終わり、1982年開幕時には再びシートを喪失することとなった。
フェラーリ時代
編集F1浪人となった1982年だったが、中盤にフェラーリからオファーが舞い込む。自身の親友でもあり、第5戦ベルギーGP予選にて事故死した、ジル・ヴィルヌーヴの後任としてのオファーだった。
タンベイは第9戦オランダGPより参戦するが、この年のフェラーリはヴィルヌーヴとディディエ・ピローニのドライバー間の確執、前述したヴィルヌーヴの事故死などにより、混乱の中にいた。第12戦ドイツGPでは、それまでランキング首位に立っていたピローニが予選中の事故で両足を複雑骨折して戦線離脱を余儀なくされ、再びチームは波乱を迎えた。
しかし、タンベイは決勝で優勝する。自身の初優勝であるうえ、混乱するチームに希望を与える勝利となった。これを含めて数回入賞し、チームのコンストラクターズチャンピオン獲得に貢献した。
翌1983年もフェラーリに在籍し、予選では4度のポール・ポジション(以下:PP)を獲得したほか、第4戦サンマリノGPではファイナルラップ(最終周)にリカルド・パトレーゼがクラッシュしたため、繰り上がりで優勝した。さらに数回表彰台に上がり、最終的にドライバーズランクでは4位となったほか、チームのコンストラクターズタイトル連覇にも貢献した。
移籍
編集1984年、タンベイはミケーレ・アルボレートの加入に伴いフェラーリを去る[注釈 1]こととなり、ルノーに移籍する。第5戦フランスGPでは予選でPPを獲得し、決勝でも2位に入っている。しかし、チームはすでに勢いを失っており、最終的に入賞は4度に留まった。フランスに続く第6戦モナコGPでは、オープニングラップ中に発生した多重クラッシュにチームメイトのデレック・ワーウィック共々巻き込まれて左足を骨折し、翌第7戦カナダGPを欠場する憂き目に遭っている。また、第14戦イタリアGPでは終盤までトップを走りながらスロットルワイヤー切れでリタイヤするなど、マシントラブルにも泣かされるシーズンとなった。
1985年もルノーから参戦。前半戦は2度の3位表彰台を含む4回の入賞を記録したが、後半戦は1度もポイントを獲得できなかった。結局、この年をもってチームは撤退している。
1986年はチーム・ハース(ローラ)から参戦。しかし、マシンの戦闘力は低く、タンベイは1度の5位入賞が精一杯であった。結局、この年をもってタンベイはF1から姿を消すこととなった。
F1離脱以降
編集1987年、スイスに自身のプロモーション事務所を開設。
1988年7月、翌年から2カー体制へと規模拡大する予定だったAGSに加入しF1復帰すると報じられるも実現しなかった[3]。
1989年のル・マン24時間レースにジャガー・XJR-9LMで参戦し、ジャガーチーム内最高位の4位で完走した。
砂漠でのラリーレイドにも参戦しており、ダカール・ラリーでは三菱自動車チームなどでエントリーし、上位3位に2回入賞している。このうち1988年については、最終ゴール目前まで4輪車部門のトップを走っていたアリ・バタネンが、マシンの盗難に遭ってスタートできなかったという理由で失格となったことによる、繰り上げ入賞だった。フィニッシュ時のインタビューで、非情の裁定を下した主催者に対する抗議の念と、バタネンへの敬意と慰撫を込めて「私は3位ではない。4位だ」と語っている。
そのほか、BPR-GT選手権にもブガッティ・EB110などでスポット出場している。
現役引退後
編集レーサーの引退後は、フランスのテレビ局でモータースポーツ解説に携わる。その後は政治家に転身し、アルプ=マリティーム県ル・カネ市の副市長も務めた。
家族
編集息子のエイドリアン・タンベイもレーシングドライバー。エイドリアンは2011年にはFIA GT3選手権にアウディ・R8で参戦していたほか、2012年はドイツツーリングカー選手権(DTM)にアウディからスポット参戦する[5]。
逸話
編集ミシェル・ヴァイヨンの作者、ジャン・グラトンと共に写っている写真が存在する。
レース戦績
編集略歴
編集年 | シリーズ | チーム | レース | 勝利 | PP | FL | 表彰台 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974 | ヨーロピアン・フォーミュラ2(英語版) | エキュリー・エルフ | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 7位 |
1975 | マーチ・エンジニアリング | 14 | 1 | 3 | 0 | 5 | 36 | 2位 | |
1976 | オートモビルズ・マルティニ(英語版) | 12 | 1 | 2 | 1 | 7 | 39 | 3位 | |
SCCA・コンチネンタル・チャンピオンシップ(英語版) | セオドール・レーシング・香港 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 21位 | |
1977 | フォーミュラ1 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 18位 | |
Can-Am | カール・A. ハース・レーシング | 6 | 6 | 0 | 0 | 6 | 0 | 1位 | |
ヨーロピアン・フォーミュラ2 | アードモア・レーシング | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | NC | |
1978 | フォーミュラ1 | マールボロ・チーム・マクラーレン | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 14位 |
ヨーロピアン・フォーミュラ2 | シェブロン・カーズ(英語版) | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC‡ | |
1979 | フォーミュラ1 | マールボロ・チーム・マクラーレン | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC |
1980 | Can-Am | カール・A. ハース・レーシング | 6 | 6 | 0 | 0 | 6 | 0 | 1位 |
1981 | フォーミュラ1 | エキップ・タルボ・ジタン | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 19位 |
セオドール・レーシング | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
ル・マン24時間レース | オセアニック・ジャン・ロンドー | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
1982 | フォーミュラ1 | スクーデリア・フェラーリ | 6 | 1 | 0 | 0 | 3 | 25 | 7位 |
1983 | 15 | 1 | 4 | 1 | 5 | 40 | 4位 | ||
1984 | エキップ・ルノー・エルフ | 15 | 0 | 1 | 1 | 1 | 11 | 11位 | |
1985 | 15 | 0 | 0 | 0 | 2 | 11 | 12位 | ||
1986 | チーム・ハース (USA) Ltd. | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 15位 | |
1989 | 世界スポーツカー選手権 | シルク・カット(英語版)・ジャガー | 8 | 0 | 1 | 0 | 1 | 30 | 8位 |
2005 | グランプリ・マスターズ | チーム・リクサス | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | - |
2006 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | - |
- ‡ : グレーデッド・ドライバーの対象になるためポイントは加算されない。
ヨーロピアン・フォーミュラ2選手権
編集年 | エントラント | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974年 | エキュリー・エルフ | アルピーヌ・A367 | BMW | BAR 10 |
HOC 5 |
PAU Ret |
SAL 4 |
HOC Ret |
MUG NC |
KAR Ret |
PER Ret |
HOC 4 |
VAL 4 |
7位 | 11 | ||||
1975年 | マーチ・エンジニアリング | マーチ・752 | EST Ret |
THR 2 |
HOC Ret |
NÜR 2 |
PAU Ret |
HOC Ret |
SAL 15 |
ROU 2 |
MUG Ret |
PER Ret |
SIL 4 |
ZOL 2 |
NOG 1 |
VAL Ret |
2位 | 36 | |
1976年 | オートモビルズ・マルティニ | マルティニ・Mk 19 | ルノー | HOC 3 |
THR 3 |
VAL 2 |
SAL 3 |
PAU Ret |
HOC 3 |
ROU Ret |
MUG 3 |
PER Ret |
EST 16 |
NOG 1 |
HOC DSQ |
3位 | 39 | ||
1977年 | アードモア・レーシング | シェブロン・B40 | ハート | SIL | THR | HOC | NÜR | VAL | PAU Ret |
MUG | ROU Ret |
NOG | PER | MIS | EST | DON | NC | 0 | |
1978年 | シェブロン・カーズ | シェブロン・B42 | THR | HOC | NÜR | PAU 6 |
MUG | VAL | ROU | DON | NOG | PER | MIS | HOC | NC | 0‡ |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
- ‡ : グレーデッド・ドライバーの対象になるためポイントは加算されない。
全日本F2000選手権
編集年 | エントラント | シャシー | エンジン | タイヤ | 車番 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977年 | セオドール・レーシング | シェブロン・B35 | フォード・コスワース BDA | B | 0 | SUZ | SUZ | NIS | SUZ | FUJ Ret |
FUJ | SUZ | SUZ | -[6] | -[6] |
フォーミュラ1
編集ル・マン24時間レース
編集年 | チーム | コ・ドライバー | 車両 | クラス | 周回数 | 総合 順位 |
クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1976年 | ルノー・スポール | ジャン=ピエール・ジャブイーユ ジョゼ・ドレム |
ルノー・アルピーヌ A442 | S 3.0 |
135 | DNF | DNF |
1977年 | エキップ・ルノー・エルフ | ジャン=ピエール・ジョッソー | S 3.0 | 158 | DNF | DNF | |
1981年 | オセアニック・ジャン・ロンドー | アンリ・ペスカロロ | ロンドー・M379 - フォード・コスワース | 2 +2.0 |
41 | DNF | DNF |
1989年 | シルク・カット・ジャガー トム・ウォーキンショー・レーシング |
ヤン・ラマース アンドリュー・ギルバート=スコット |
ジャガー・XJR-9LM | C1 | 380 | 4位 | 4位 |
グランプリ・マスターズ
編集年 | チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2005年 | チーム・リクサス | デルタ・モータースポーツ GPM | ニコルソン・マクラーレン 3.5 V8 | RSA 11 |
||||
2006年 | QAT 11 |
ITA C |
GBR 11 |
MAL C |
RSA C |
カナディアン=アメリカン・チャレンジ・カップ
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 1977JAF・富士グランプリ 日本自動車連盟モータースポーツ
- ^ 『CARトップ』国際モータースポーツ記事より[要ページ番号]
- ^ パトリック・タンベイがAGSでF1復帰か F1 GPX '88ドイツGP号 29頁 1988年8月13日発行
- ^ “元F1ドライバー、パトリック・タンベイが73歳で死去。フェラーリのタイトル獲得に貢献”. autosport web (2022年12月5日). 2022年12月5日閲覧。
- ^ アウディ、新たにタンベイと契約。A5 DTMは8台に - オートスポーツ・2012年3月15日
- ^ a b JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。
関連項目
編集外部リンク
編集- Patrick Tambay Official - Facebook
- Patrick TAMBAY (@PATF1) - X(旧Twitter)