Property |
Value |
dbo:abstract
|
- 袁 逢(えん ほう、生没年不詳)は、後漢後期の政治家。霊帝時代の国三老(霊帝の頃の国三老は時期は違うが、袁逢と楊賜の2人)。字は周陽。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。後漢の太尉袁湯の子で、太僕袁基、左将軍・徐州伯、仲皇帝袁術の父にあたる。弟に袁隗。また姉妹は楊彪の妻となった。 太尉・司徒・司空を歴任した大政治家袁湯の12名の子の一人で、名が伝わっている者の中では第3子にあたる。本来、袁湯の家を嗣ぐはずだったが夭折したので、袁逢が袁湯の家をつぎ、袁湯の爵位安国亭侯を嗣いだ。霊帝の頃、三公に至る前に三老となった。その後、司空と為り執金吾にあった頃に亡くなった。 人格的に優れていたことと、公族家(三公を輩出している家)の出身ということがあって評判が高く、顕官を歴任した。しかし政治家としての資質は弟の袁隗のほうが高かったようで、袁逢よりも先に三公となった。袁隗はあくまで袁逢が袁氏の長と考えていたようで、多くの気を配っていた。袁逢の頃、増封され800戸を食んだ。 袁逢・袁隗の栄達の背景として(1)宗族に中常侍のがいて内援となっていたこと(2)累世三公の家柄だったこと、の2点がよく指摘されるが、袁赦は早い時期に処刑されているし、家柄についても世襲を可能にする制度もないことから、外的要因が大きかったとは考えられていない。 死後、特進の号が加えられて、車騎将軍の印綬が追贈された。諡は文宣侯。安国亭侯の爵位は長子のが嗣いだ。なお袁紹は袁逢の庶子であるとする説(王沈『魏書』、袁山松『後漢書』)があるが、はっきりとしたことは判らない。范曄や考証学者の恵棟は袁逢の庶子ではなく、袁成の実子と考えている。 (ja)
- 袁 逢(えん ほう、生没年不詳)は、後漢後期の政治家。霊帝時代の国三老(霊帝の頃の国三老は時期は違うが、袁逢と楊賜の2人)。字は周陽。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。後漢の太尉袁湯の子で、太僕袁基、左将軍・徐州伯、仲皇帝袁術の父にあたる。弟に袁隗。また姉妹は楊彪の妻となった。 太尉・司徒・司空を歴任した大政治家袁湯の12名の子の一人で、名が伝わっている者の中では第3子にあたる。本来、袁湯の家を嗣ぐはずだったが夭折したので、袁逢が袁湯の家をつぎ、袁湯の爵位安国亭侯を嗣いだ。霊帝の頃、三公に至る前に三老となった。その後、司空と為り執金吾にあった頃に亡くなった。 人格的に優れていたことと、公族家(三公を輩出している家)の出身ということがあって評判が高く、顕官を歴任した。しかし政治家としての資質は弟の袁隗のほうが高かったようで、袁逢よりも先に三公となった。袁隗はあくまで袁逢が袁氏の長と考えていたようで、多くの気を配っていた。袁逢の頃、増封され800戸を食んだ。 袁逢・袁隗の栄達の背景として(1)宗族に中常侍のがいて内援となっていたこと(2)累世三公の家柄だったこと、の2点がよく指摘されるが、袁赦は早い時期に処刑されているし、家柄についても世襲を可能にする制度もないことから、外的要因が大きかったとは考えられていない。 死後、特進の号が加えられて、車騎将軍の印綬が追贈された。諡は文宣侯。安国亭侯の爵位は長子のが嗣いだ。なお袁紹は袁逢の庶子であるとする説(王沈『魏書』、袁山松『後漢書』)があるが、はっきりとしたことは判らない。范曄や考証学者の恵棟は袁逢の庶子ではなく、袁成の実子と考えている。 (ja)
|
dbo:wikiPageID
| |
dbo:wikiPageLength
|
- 1001 (xsd:nonNegativeInteger)
|
dbo:wikiPageRevisionID
| |
dbo:wikiPageWikiLink
| |
dct:subject
| |
rdfs:comment
|
- 袁 逢(えん ほう、生没年不詳)は、後漢後期の政治家。霊帝時代の国三老(霊帝の頃の国三老は時期は違うが、袁逢と楊賜の2人)。字は周陽。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。後漢の太尉袁湯の子で、太僕袁基、左将軍・徐州伯、仲皇帝袁術の父にあたる。弟に袁隗。また姉妹は楊彪の妻となった。 太尉・司徒・司空を歴任した大政治家袁湯の12名の子の一人で、名が伝わっている者の中では第3子にあたる。本来、袁湯の家を嗣ぐはずだったが夭折したので、袁逢が袁湯の家をつぎ、袁湯の爵位安国亭侯を嗣いだ。霊帝の頃、三公に至る前に三老となった。その後、司空と為り執金吾にあった頃に亡くなった。 人格的に優れていたことと、公族家(三公を輩出している家)の出身ということがあって評判が高く、顕官を歴任した。しかし政治家としての資質は弟の袁隗のほうが高かったようで、袁逢よりも先に三公となった。袁隗はあくまで袁逢が袁氏の長と考えていたようで、多くの気を配っていた。袁逢の頃、増封され800戸を食んだ。 袁逢・袁隗の栄達の背景として(1)宗族に中常侍のがいて内援となっていたこと(2)累世三公の家柄だったこと、の2点がよく指摘されるが、袁赦は早い時期に処刑されているし、家柄についても世襲を可能にする制度もないことから、外的要因が大きかったとは考えられていない。 (ja)
- 袁 逢(えん ほう、生没年不詳)は、後漢後期の政治家。霊帝時代の国三老(霊帝の頃の国三老は時期は違うが、袁逢と楊賜の2人)。字は周陽。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。後漢の太尉袁湯の子で、太僕袁基、左将軍・徐州伯、仲皇帝袁術の父にあたる。弟に袁隗。また姉妹は楊彪の妻となった。 太尉・司徒・司空を歴任した大政治家袁湯の12名の子の一人で、名が伝わっている者の中では第3子にあたる。本来、袁湯の家を嗣ぐはずだったが夭折したので、袁逢が袁湯の家をつぎ、袁湯の爵位安国亭侯を嗣いだ。霊帝の頃、三公に至る前に三老となった。その後、司空と為り執金吾にあった頃に亡くなった。 人格的に優れていたことと、公族家(三公を輩出している家)の出身ということがあって評判が高く、顕官を歴任した。しかし政治家としての資質は弟の袁隗のほうが高かったようで、袁逢よりも先に三公となった。袁隗はあくまで袁逢が袁氏の長と考えていたようで、多くの気を配っていた。袁逢の頃、増封され800戸を食んだ。 袁逢・袁隗の栄達の背景として(1)宗族に中常侍のがいて内援となっていたこと(2)累世三公の家柄だったこと、の2点がよく指摘されるが、袁赦は早い時期に処刑されているし、家柄についても世襲を可能にする制度もないことから、外的要因が大きかったとは考えられていない。 (ja)
|
rdfs:label
| |
owl:sameAs
| |
prov:wasDerivedFrom
| |
foaf:isPrimaryTopicOf
| |
is dbo:wikiPageWikiLink
of | |
is prop-en:父
of | |
is owl:sameAs
of | |
is foaf:primaryTopic
of | |