蓮教(れんきょう、宝徳3年1月15日(1451年2月16日) - 延徳4年5月2日(1492年5月27日)は、戦国時代の浄土真宗の僧。真宗興正派興正寺第14世()。初名は経豪(きょうごう)。号は花恩院。諡号は願乗院。父は真宗佛光寺派佛光寺12世で、甘露寺親長の猶子。経誉の兄で、蓮秀の父。 妙法院のに師事して文明元年(1469年)に叔父の光教から佛光寺を継いで第14世となるものの、文明14年(1482年)頃に佛光寺に属する48坊のうち42坊を引き連れて本願寺第8世法主蓮如の長男順如の仲介で本願寺に合流した。その際に「経豪」から「蓮敎」と名を与えられ改名する。 これによって佛光寺派は大混乱をきたし、光教が経豪の弟である経誉を急遽法主に押し立てた。その際、経豪はそもそも第14世法主など継いでいなかったことにされ、経誉が新たに第14世として就任した。 蓮如の孫にあたる恵光尼(順如の妹如慶と常楽寺住持の子)を妻とし、山科興正寺を興隆してその基礎を築いた。

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  • 蓮教(れんきょう、宝徳3年1月15日(1451年2月16日) - 延徳4年5月2日(1492年5月27日)は、戦国時代の浄土真宗の僧。真宗興正派興正寺第14世()。初名は経豪(きょうごう)。号は花恩院。諡号は願乗院。父は真宗佛光寺派佛光寺12世で、甘露寺親長の猶子。経誉の兄で、蓮秀の父。 妙法院のに師事して文明元年(1469年)に叔父の光教から佛光寺を継いで第14世となるものの、文明14年(1482年)頃に佛光寺に属する48坊のうち42坊を引き連れて本願寺第8世法主蓮如の長男順如の仲介で本願寺に合流した。その際に「経豪」から「蓮敎」と名を与えられ改名する。 これによって佛光寺派は大混乱をきたし、光教が経豪の弟である経誉を急遽法主に押し立てた。その際、経豪はそもそも第14世法主など継いでいなかったことにされ、経誉が新たに第14世として就任した。 蓮如の孫にあたる恵光尼(順如の妹如慶と常楽寺住持の子)を妻とし、山科興正寺を興隆してその基礎を築いた。 (ja)
  • 蓮教(れんきょう、宝徳3年1月15日(1451年2月16日) - 延徳4年5月2日(1492年5月27日)は、戦国時代の浄土真宗の僧。真宗興正派興正寺第14世()。初名は経豪(きょうごう)。号は花恩院。諡号は願乗院。父は真宗佛光寺派佛光寺12世で、甘露寺親長の猶子。経誉の兄で、蓮秀の父。 妙法院のに師事して文明元年(1469年)に叔父の光教から佛光寺を継いで第14世となるものの、文明14年(1482年)頃に佛光寺に属する48坊のうち42坊を引き連れて本願寺第8世法主蓮如の長男順如の仲介で本願寺に合流した。その際に「経豪」から「蓮敎」と名を与えられ改名する。 これによって佛光寺派は大混乱をきたし、光教が経豪の弟である経誉を急遽法主に押し立てた。その際、経豪はそもそも第14世法主など継いでいなかったことにされ、経誉が新たに第14世として就任した。 蓮如の孫にあたる恵光尼(順如の妹如慶と常楽寺住持の子)を妻とし、山科興正寺を興隆してその基礎を築いた。 (ja)
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  • 蓮教 (ja)
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