稲葉 迂斎(いなば うさい、貞享元年9月17日(1684年10月25日) - 宝暦10年11月10日(1760年12月16日))は、江戸時代の儒学者。麻布六本木町出身。佐倉藩士鈴木正則の子。通称は十五郎、十左衛門。諱は通経、後正義と改名。兄に稲葉則通がいる。同じく儒学者のは息子。 浅見絅斎、三宅尚斎の影響を受け、山崎闇斎の学問(闇斎学)へ傾倒する。、、赤井直義らと交流して研究に励行し、佐藤直方に師事しながら、自らも講釈をした。絅斎、尚斎の下に滞在して、聴講したこともある。師直方の没後、闇斎学は衰退したが、迂斎の声望は止まることはなかった。正徳5年(1715年)、唐津藩に招聘され、そこで教鞭を振るう。寛保3年(1743年)には200石を支給された。宝暦10年(1760年)11月10日没。著作に「親民須知」、「迂斎先生学話抄略」、「幼君輔佐之心得」、「与興津氏之女書」、「迂斎先生語録抄略」、「迂斎稲葉先生国字筆記」などがある。

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  • 稲葉 迂斎(いなば うさい、貞享元年9月17日(1684年10月25日) - 宝暦10年11月10日(1760年12月16日))は、江戸時代の儒学者。麻布六本木町出身。佐倉藩士鈴木正則の子。通称は十五郎、十左衛門。諱は通経、後正義と改名。兄に稲葉則通がいる。同じく儒学者のは息子。 浅見絅斎、三宅尚斎の影響を受け、山崎闇斎の学問(闇斎学)へ傾倒する。、、赤井直義らと交流して研究に励行し、佐藤直方に師事しながら、自らも講釈をした。絅斎、尚斎の下に滞在して、聴講したこともある。師直方の没後、闇斎学は衰退したが、迂斎の声望は止まることはなかった。正徳5年(1715年)、唐津藩に招聘され、そこで教鞭を振るう。寛保3年(1743年)には200石を支給された。宝暦10年(1760年)11月10日没。著作に「親民須知」、「迂斎先生学話抄略」、「幼君輔佐之心得」、「与興津氏之女書」、「迂斎先生語録抄略」、「迂斎稲葉先生国字筆記」などがある。 (ja)
  • 稲葉 迂斎(いなば うさい、貞享元年9月17日(1684年10月25日) - 宝暦10年11月10日(1760年12月16日))は、江戸時代の儒学者。麻布六本木町出身。佐倉藩士鈴木正則の子。通称は十五郎、十左衛門。諱は通経、後正義と改名。兄に稲葉則通がいる。同じく儒学者のは息子。 浅見絅斎、三宅尚斎の影響を受け、山崎闇斎の学問(闇斎学)へ傾倒する。、、赤井直義らと交流して研究に励行し、佐藤直方に師事しながら、自らも講釈をした。絅斎、尚斎の下に滞在して、聴講したこともある。師直方の没後、闇斎学は衰退したが、迂斎の声望は止まることはなかった。正徳5年(1715年)、唐津藩に招聘され、そこで教鞭を振るう。寛保3年(1743年)には200石を支給された。宝暦10年(1760年)11月10日没。著作に「親民須知」、「迂斎先生学話抄略」、「幼君輔佐之心得」、「与興津氏之女書」、「迂斎先生語録抄略」、「迂斎稲葉先生国字筆記」などがある。 (ja)
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  • 稲葉 迂斎(いなば うさい、貞享元年9月17日(1684年10月25日) - 宝暦10年11月10日(1760年12月16日))は、江戸時代の儒学者。麻布六本木町出身。佐倉藩士鈴木正則の子。通称は十五郎、十左衛門。諱は通経、後正義と改名。兄に稲葉則通がいる。同じく儒学者のは息子。 浅見絅斎、三宅尚斎の影響を受け、山崎闇斎の学問(闇斎学)へ傾倒する。、、赤井直義らと交流して研究に励行し、佐藤直方に師事しながら、自らも講釈をした。絅斎、尚斎の下に滞在して、聴講したこともある。師直方の没後、闇斎学は衰退したが、迂斎の声望は止まることはなかった。正徳5年(1715年)、唐津藩に招聘され、そこで教鞭を振るう。寛保3年(1743年)には200石を支給された。宝暦10年(1760年)11月10日没。著作に「親民須知」、「迂斎先生学話抄略」、「幼君輔佐之心得」、「与興津氏之女書」、「迂斎先生語録抄略」、「迂斎稲葉先生国字筆記」などがある。 (ja)
  • 稲葉 迂斎(いなば うさい、貞享元年9月17日(1684年10月25日) - 宝暦10年11月10日(1760年12月16日))は、江戸時代の儒学者。麻布六本木町出身。佐倉藩士鈴木正則の子。通称は十五郎、十左衛門。諱は通経、後正義と改名。兄に稲葉則通がいる。同じく儒学者のは息子。 浅見絅斎、三宅尚斎の影響を受け、山崎闇斎の学問(闇斎学)へ傾倒する。、、赤井直義らと交流して研究に励行し、佐藤直方に師事しながら、自らも講釈をした。絅斎、尚斎の下に滞在して、聴講したこともある。師直方の没後、闇斎学は衰退したが、迂斎の声望は止まることはなかった。正徳5年(1715年)、唐津藩に招聘され、そこで教鞭を振るう。寛保3年(1743年)には200石を支給された。宝暦10年(1760年)11月10日没。著作に「親民須知」、「迂斎先生学話抄略」、「幼君輔佐之心得」、「与興津氏之女書」、「迂斎先生語録抄略」、「迂斎稲葉先生国字筆記」などがある。 (ja)
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