沈 曽植(しん そうしょく、1850年 - 1922年11月20日)は、清末民初の官僚・歴史家。字は子培、号は巽斎または乙盦、晩年は寐叟と号した。浙江省嘉興府嘉興県の出身。 1880年、進士となり、刑部主事、員外郎、郎中を歴任した。1895年、康有為や梁啓超とともに強学会を設立し、変法運動を推進した。1898年、母の死で離職し、湖広総督張之洞の招きで武昌の両湖書院で史学を講義した。1900年、義和団の乱が発生すると両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞が東南互保を結ぶのに奔走した。その後盛宣懐の招きで上海南洋公学(現在の上海交通大学)監督となり、江西省広信府知府、安徽提学使、安徽布政使を歴任した。1910年に引退。辛亥革命後は上海に隠棲し、邸宅を海日楼と称した。1917年、張勲復辟に参加し学部尚書に任命された。 儒学・遼金元史・法律学・音韻学・地理学・仏教学に精通し、能書家としても知られていた。

Property Value
dbo:abstract
  • 沈 曽植(しん そうしょく、1850年 - 1922年11月20日)は、清末民初の官僚・歴史家。字は子培、号は巽斎または乙盦、晩年は寐叟と号した。浙江省嘉興府嘉興県の出身。 1880年、進士となり、刑部主事、員外郎、郎中を歴任した。1895年、康有為や梁啓超とともに強学会を設立し、変法運動を推進した。1898年、母の死で離職し、湖広総督張之洞の招きで武昌の両湖書院で史学を講義した。1900年、義和団の乱が発生すると両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞が東南互保を結ぶのに奔走した。その後盛宣懐の招きで上海南洋公学(現在の上海交通大学)監督となり、江西省広信府知府、安徽提学使、安徽布政使を歴任した。1910年に引退。辛亥革命後は上海に隠棲し、邸宅を海日楼と称した。1917年、張勲復辟に参加し学部尚書に任命された。 儒学・遼金元史・法律学・音韻学・地理学・仏教学に精通し、能書家としても知られていた。 (ja)
  • 沈 曽植(しん そうしょく、1850年 - 1922年11月20日)は、清末民初の官僚・歴史家。字は子培、号は巽斎または乙盦、晩年は寐叟と号した。浙江省嘉興府嘉興県の出身。 1880年、進士となり、刑部主事、員外郎、郎中を歴任した。1895年、康有為や梁啓超とともに強学会を設立し、変法運動を推進した。1898年、母の死で離職し、湖広総督張之洞の招きで武昌の両湖書院で史学を講義した。1900年、義和団の乱が発生すると両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞が東南互保を結ぶのに奔走した。その後盛宣懐の招きで上海南洋公学(現在の上海交通大学)監督となり、江西省広信府知府、安徽提学使、安徽布政使を歴任した。1910年に引退。辛亥革命後は上海に隠棲し、邸宅を海日楼と称した。1917年、張勲復辟に参加し学部尚書に任命された。 儒学・遼金元史・法律学・音韻学・地理学・仏教学に精通し、能書家としても知られていた。 (ja)
dbo:alias
  • しん そうしょく (ja)
  • しん そうしょく (ja)
dbo:thumbnail
dbo:wikiPageID
  • 1643607 (xsd:integer)
dbo:wikiPageLength
  • 1469 (xsd:nonNegativeInteger)
dbo:wikiPageRevisionID
  • 87526660 (xsd:integer)
dbo:wikiPageWikiLink
prop-en:wikiPageUsesTemplate
prop-en:ピン音
  • (ja)
  • (ja)
prop-en:ラテン字
  • Shen Tzeng-chih (ja)
  • Shen Tzeng-chih (ja)
prop-en:出生
  • 1850 (xsd:integer)
prop-en:出身地
  • 浙江省嘉興府嘉興県 (ja)
  • 浙江省嘉興府嘉興県 (ja)
prop-en:名前
  • 沈曽植 (ja)
  • 沈曽植 (ja)
prop-en:和名
  • しん そうしょく (ja)
  • しん そうしょく (ja)
prop-en:死去
  • 1922 (xsd:integer)
prop-en:画像
  • 180 (xsd:integer)
prop-en:発音
  • シェン・ゾンヂー (ja)
  • シェン・ゾンヂー (ja)
prop-en:簡体字
  • (ja)
  • (ja)
prop-en:繁体字
  • (ja)
  • (ja)
prop-en:職業
  • 官僚・歴史家 (ja)
  • 官僚・歴史家 (ja)
dct:subject
rdf:type
rdfs:comment
  • 沈 曽植(しん そうしょく、1850年 - 1922年11月20日)は、清末民初の官僚・歴史家。字は子培、号は巽斎または乙盦、晩年は寐叟と号した。浙江省嘉興府嘉興県の出身。 1880年、進士となり、刑部主事、員外郎、郎中を歴任した。1895年、康有為や梁啓超とともに強学会を設立し、変法運動を推進した。1898年、母の死で離職し、湖広総督張之洞の招きで武昌の両湖書院で史学を講義した。1900年、義和団の乱が発生すると両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞が東南互保を結ぶのに奔走した。その後盛宣懐の招きで上海南洋公学(現在の上海交通大学)監督となり、江西省広信府知府、安徽提学使、安徽布政使を歴任した。1910年に引退。辛亥革命後は上海に隠棲し、邸宅を海日楼と称した。1917年、張勲復辟に参加し学部尚書に任命された。 儒学・遼金元史・法律学・音韻学・地理学・仏教学に精通し、能書家としても知られていた。 (ja)
  • 沈 曽植(しん そうしょく、1850年 - 1922年11月20日)は、清末民初の官僚・歴史家。字は子培、号は巽斎または乙盦、晩年は寐叟と号した。浙江省嘉興府嘉興県の出身。 1880年、進士となり、刑部主事、員外郎、郎中を歴任した。1895年、康有為や梁啓超とともに強学会を設立し、変法運動を推進した。1898年、母の死で離職し、湖広総督張之洞の招きで武昌の両湖書院で史学を講義した。1900年、義和団の乱が発生すると両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞が東南互保を結ぶのに奔走した。その後盛宣懐の招きで上海南洋公学(現在の上海交通大学)監督となり、江西省広信府知府、安徽提学使、安徽布政使を歴任した。1910年に引退。辛亥革命後は上海に隠棲し、邸宅を海日楼と称した。1917年、張勲復辟に参加し学部尚書に任命された。 儒学・遼金元史・法律学・音韻学・地理学・仏教学に精通し、能書家としても知られていた。 (ja)
rdfs:label
  • 沈曽植 (ja)
  • 沈曽植 (ja)
prov:wasDerivedFrom
foaf:depiction
foaf:isPrimaryTopicOf
foaf:name
  • 沈曽植 (ja)
  • 沈曽植 (ja)
is dbo:wikiPageRedirects of
is dbo:wikiPageWikiLink of
is owl:sameAs of
is foaf:primaryTopic of