水野 忠通(みずの ただゆき、延享4年(1747年) - 文政6年11月17日(1823年12月18日))は、江戸幕府の旗本。通称は熊三郎、要人、官位は従五位下若狭守。父は水野忠寄。妻は鳥居忠雄の娘で、秋月種蔭の娘を後妻に迎える。 寛政の改革を推し進めた松平定信は、天明6年(1786年)もしくは翌7年初頭に将軍徳川家斉に上申した書状に、「長崎は日本の病の一ツのうち」であり、その統治は熟考すべきことだと書いた後、当時長崎奉行を務めていた水野は「相応御用に相立ち申す可き(しっかりしており役に立つ)」者と述べていた。『よしの冊子』にも、定信から目をかけられたことで「水野ハ一体気丈無欲ニてよき御役人のよしのさた」(なかなか気が強く無欲なので、よい役人だ)と評判になったことが書かれている。