森下 貞三(もりした ていぞう、? - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の紙芝居師。静岡県出身。 元は指物師として家具製造の職についていたが、1927年(昭和2年)以降の昭和金融恐慌の煽りで仕事が激減していたところ、近所に住んでいた紙芝居の貸元「松島家」から紙芝居の舞台の製作の依頼があり、松島家の親方の勧めで同年に紙芝居師となった。後には松島家の跡を継ぎ、多くの弟子を抱えた。 生来の話好きであったため、紙芝居師は森下の天職となった。観客である子供たちとの信頼関係を大事にし、病気で紙芝居を見に来られない子供がいれば、その子の家を訪ね、その子のためだけに紙芝居を演じることもあった。また、昭和初期にあった紙製の人形で芝居を演じる立絵紙芝居を改良し、後に知られる紙芝居の上演スタイルを作り上げたことから、街頭紙芝居の草分けともいわれる。 95歳まで現役の紙芝居師として活躍した後、引退後は自作の創作紙芝居を携えて、ボランティアで老人ホームの慰問活動を行なった。1987年(昭和62年)まで現役の紙芝居師を貫いた後、翌1988年(昭和63年)、満96歳で死去した。息子たちの没後も、孫にあたる森下昌毅(正雄の長男)が3代目として紙芝居を上演している。

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  • 森下 貞三(もりした ていぞう、? - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の紙芝居師。静岡県出身。 元は指物師として家具製造の職についていたが、1927年(昭和2年)以降の昭和金融恐慌の煽りで仕事が激減していたところ、近所に住んでいた紙芝居の貸元「松島家」から紙芝居の舞台の製作の依頼があり、松島家の親方の勧めで同年に紙芝居師となった。後には松島家の跡を継ぎ、多くの弟子を抱えた。 生来の話好きであったため、紙芝居師は森下の天職となった。観客である子供たちとの信頼関係を大事にし、病気で紙芝居を見に来られない子供がいれば、その子の家を訪ね、その子のためだけに紙芝居を演じることもあった。また、昭和初期にあった紙製の人形で芝居を演じる立絵紙芝居を改良し、後に知られる紙芝居の上演スタイルを作り上げたことから、街頭紙芝居の草分けともいわれる。 1932年(昭和7年)には紙芝居の品質向上を図るための団体として「日本画劇教育協会」を設立し、当時の文部政務次官、後に国務大臣・文部大臣となる安藤正純を会長に迎えた。息子3人と娘婿も跡を継いでおり、1952年(昭和27年)には東京都紙芝居コンクールで三男の森下正雄、翌1953年(昭和28年)の同コンクールでは長男の森下貞義が特選を獲得したことで、森下家は一躍、紙芝居一家として知られることとなった。1981年(昭和56年)には当時の日本に5万人いた紙芝居師の中から業界初となる勲六等瑞宝章を受章した。 95歳まで現役の紙芝居師として活躍した後、引退後は自作の創作紙芝居を携えて、ボランティアで老人ホームの慰問活動を行なった。1987年(昭和62年)まで現役の紙芝居師を貫いた後、翌1988年(昭和63年)、満96歳で死去した。息子たちの没後も、孫にあたる森下昌毅(正雄の長男)が3代目として紙芝居を上演している。 (ja)
  • 森下 貞三(もりした ていぞう、? - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の紙芝居師。静岡県出身。 元は指物師として家具製造の職についていたが、1927年(昭和2年)以降の昭和金融恐慌の煽りで仕事が激減していたところ、近所に住んでいた紙芝居の貸元「松島家」から紙芝居の舞台の製作の依頼があり、松島家の親方の勧めで同年に紙芝居師となった。後には松島家の跡を継ぎ、多くの弟子を抱えた。 生来の話好きであったため、紙芝居師は森下の天職となった。観客である子供たちとの信頼関係を大事にし、病気で紙芝居を見に来られない子供がいれば、その子の家を訪ね、その子のためだけに紙芝居を演じることもあった。また、昭和初期にあった紙製の人形で芝居を演じる立絵紙芝居を改良し、後に知られる紙芝居の上演スタイルを作り上げたことから、街頭紙芝居の草分けともいわれる。 1932年(昭和7年)には紙芝居の品質向上を図るための団体として「日本画劇教育協会」を設立し、当時の文部政務次官、後に国務大臣・文部大臣となる安藤正純を会長に迎えた。息子3人と娘婿も跡を継いでおり、1952年(昭和27年)には東京都紙芝居コンクールで三男の森下正雄、翌1953年(昭和28年)の同コンクールでは長男の森下貞義が特選を獲得したことで、森下家は一躍、紙芝居一家として知られることとなった。1981年(昭和56年)には当時の日本に5万人いた紙芝居師の中から業界初となる勲六等瑞宝章を受章した。 95歳まで現役の紙芝居師として活躍した後、引退後は自作の創作紙芝居を携えて、ボランティアで老人ホームの慰問活動を行なった。1987年(昭和62年)まで現役の紙芝居師を貫いた後、翌1988年(昭和63年)、満96歳で死去した。息子たちの没後も、孫にあたる森下昌毅(正雄の長男)が3代目として紙芝居を上演している。 (ja)
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  • 森下 貞三(もりした ていぞう、? - 1988年〈昭和63年〉)は、日本の紙芝居師。静岡県出身。 元は指物師として家具製造の職についていたが、1927年(昭和2年)以降の昭和金融恐慌の煽りで仕事が激減していたところ、近所に住んでいた紙芝居の貸元「松島家」から紙芝居の舞台の製作の依頼があり、松島家の親方の勧めで同年に紙芝居師となった。後には松島家の跡を継ぎ、多くの弟子を抱えた。 生来の話好きであったため、紙芝居師は森下の天職となった。観客である子供たちとの信頼関係を大事にし、病気で紙芝居を見に来られない子供がいれば、その子の家を訪ね、その子のためだけに紙芝居を演じることもあった。また、昭和初期にあった紙製の人形で芝居を演じる立絵紙芝居を改良し、後に知られる紙芝居の上演スタイルを作り上げたことから、街頭紙芝居の草分けともいわれる。 95歳まで現役の紙芝居師として活躍した後、引退後は自作の創作紙芝居を携えて、ボランティアで老人ホームの慰問活動を行なった。1987年(昭和62年)まで現役の紙芝居師を貫いた後、翌1988年(昭和63年)、満96歳で死去した。息子たちの没後も、孫にあたる森下昌毅(正雄の長男)が3代目として紙芝居を上演している。 (ja)
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