心譽(しんよ、天禄2年(971年)- 長元2年8月12日(1029年9月22日))は平安時代中期の天台宗の僧。藤原北家、右大臣藤原顕忠の孫で、左衛門佐の子。実相房を号す。 園城寺の勧修やらに顕密の奥義を学び、後に穆算から印信を受けた。長和3年(1014年)権律師に任じられる。長和6年(1017年)3月に権少僧都に転じるが、寛仁2年(1018年)5月に辞任している。治安4年(1024年)法成寺薬師堂供養の功で権大僧都に任じられ、万寿3年(1026年)に御悩加持の功で封戸を下給されている。長元元年(1028年)に権僧正に至った。同年12月には園城寺長吏を務めている。長元2年(1029年)8月12日に入寂。享年59。寸白によるものとみられる腫物を患っていたという。また別の史料によれば、一旦平復したとみられたが結局悪化して寂したという。 藤原道長・頼通父子に重んじられ、道長の怨霊調伏・息災延命のためにたびたび召され、万寿4年(1027年)11月、道長薨御の約15日前にも病の回復のために修法を行っている。『宇治拾遺物語』にも心誉を讃える逸話があり、同話から頼通の代にも信頼を得ていたことが知られる。 弟子に・・・・・・・・・・らがいた。

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  • 心譽(しんよ、天禄2年(971年)- 長元2年8月12日(1029年9月22日))は平安時代中期の天台宗の僧。藤原北家、右大臣藤原顕忠の孫で、左衛門佐の子。実相房を号す。 園城寺の勧修やらに顕密の奥義を学び、後に穆算から印信を受けた。長和3年(1014年)権律師に任じられる。長和6年(1017年)3月に権少僧都に転じるが、寛仁2年(1018年)5月に辞任している。治安4年(1024年)法成寺薬師堂供養の功で権大僧都に任じられ、万寿3年(1026年)に御悩加持の功で封戸を下給されている。長元元年(1028年)に権僧正に至った。同年12月には園城寺長吏を務めている。長元2年(1029年)8月12日に入寂。享年59。寸白によるものとみられる腫物を患っていたという。また別の史料によれば、一旦平復したとみられたが結局悪化して寂したという。 藤原道長・頼通父子に重んじられ、道長の怨霊調伏・息災延命のためにたびたび召され、万寿4年(1027年)11月、道長薨御の約15日前にも病の回復のために修法を行っている。『宇治拾遺物語』にも心誉を讃える逸話があり、同話から頼通の代にも信頼を得ていたことが知られる。 弟子に・・・・・・・・・・らがいた。 (ja)
  • 心譽(しんよ、天禄2年(971年)- 長元2年8月12日(1029年9月22日))は平安時代中期の天台宗の僧。藤原北家、右大臣藤原顕忠の孫で、左衛門佐の子。実相房を号す。 園城寺の勧修やらに顕密の奥義を学び、後に穆算から印信を受けた。長和3年(1014年)権律師に任じられる。長和6年(1017年)3月に権少僧都に転じるが、寛仁2年(1018年)5月に辞任している。治安4年(1024年)法成寺薬師堂供養の功で権大僧都に任じられ、万寿3年(1026年)に御悩加持の功で封戸を下給されている。長元元年(1028年)に権僧正に至った。同年12月には園城寺長吏を務めている。長元2年(1029年)8月12日に入寂。享年59。寸白によるものとみられる腫物を患っていたという。また別の史料によれば、一旦平復したとみられたが結局悪化して寂したという。 藤原道長・頼通父子に重んじられ、道長の怨霊調伏・息災延命のためにたびたび召され、万寿4年(1027年)11月、道長薨御の約15日前にも病の回復のために修法を行っている。『宇治拾遺物語』にも心誉を讃える逸話があり、同話から頼通の代にも信頼を得ていたことが知られる。 弟子に・・・・・・・・・・らがいた。 (ja)
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  • 心譽(しんよ、天禄2年(971年)- 長元2年8月12日(1029年9月22日))は平安時代中期の天台宗の僧。藤原北家、右大臣藤原顕忠の孫で、左衛門佐の子。実相房を号す。 園城寺の勧修やらに顕密の奥義を学び、後に穆算から印信を受けた。長和3年(1014年)権律師に任じられる。長和6年(1017年)3月に権少僧都に転じるが、寛仁2年(1018年)5月に辞任している。治安4年(1024年)法成寺薬師堂供養の功で権大僧都に任じられ、万寿3年(1026年)に御悩加持の功で封戸を下給されている。長元元年(1028年)に権僧正に至った。同年12月には園城寺長吏を務めている。長元2年(1029年)8月12日に入寂。享年59。寸白によるものとみられる腫物を患っていたという。また別の史料によれば、一旦平復したとみられたが結局悪化して寂したという。 藤原道長・頼通父子に重んじられ、道長の怨霊調伏・息災延命のためにたびたび召され、万寿4年(1027年)11月、道長薨御の約15日前にも病の回復のために修法を行っている。『宇治拾遺物語』にも心誉を讃える逸話があり、同話から頼通の代にも信頼を得ていたことが知られる。 弟子に・・・・・・・・・・らがいた。 (ja)
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