尚 久(しょう きゅう、嘉靖39年10月18日 (1560年11月15日) - 泰昌1年3月15日(1620年4月17日))は琉球第二尚氏王統5代尚元王の三男。大和名は、金武王子朝公。向氏金武御殿の元祖。 童名を真三郎金といい、金武間切を領し金武王子朝公を称した。子の尚豊が8代王になると、王の父たるをもって王号を追贈された。 父王:尚元のあとを襲ったのが兄の尚永であったが、尚永には男子がなかった。万暦16年11月25日(1589年1月11日)に兄王が薨ずると、その後継に推されたがこれを固辞し、甥にあたる尚寧を推し、尚寧が7代王に即位した。 1616年に四男:尚豊・佐敷王子朝昌が国質として薩摩藩へ上国することになると、子が無事に努めを果たし帰国することができれば、御堂を建立すると観音大士に願をかけた。すると本来は十年という期間の国質であったのが、尚豊が摂政に任じられたため、その年の冬に帰国することがゆるされた。 そこで1618年に尚久は首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建てたが、これが現在の那覇市首里山川町にある首里観音堂の建立由来である。 歴代王が眠る墓所、玉陵に葬られた。

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  • 尚 久(しょう きゅう、嘉靖39年10月18日 (1560年11月15日) - 泰昌1年3月15日(1620年4月17日))は琉球第二尚氏王統5代尚元王の三男。大和名は、金武王子朝公。向氏金武御殿の元祖。 童名を真三郎金といい、金武間切を領し金武王子朝公を称した。子の尚豊が8代王になると、王の父たるをもって王号を追贈された。 父王:尚元のあとを襲ったのが兄の尚永であったが、尚永には男子がなかった。万暦16年11月25日(1589年1月11日)に兄王が薨ずると、その後継に推されたがこれを固辞し、甥にあたる尚寧を推し、尚寧が7代王に即位した。 1616年に四男:尚豊・佐敷王子朝昌が国質として薩摩藩へ上国することになると、子が無事に努めを果たし帰国することができれば、御堂を建立すると観音大士に願をかけた。すると本来は十年という期間の国質であったのが、尚豊が摂政に任じられたため、その年の冬に帰国することがゆるされた。 そこで1618年に尚久は首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建てたが、これが現在の那覇市首里山川町にある首里観音堂の建立由来である。 歴代王が眠る墓所、玉陵に葬られた。 (ja)
  • 尚 久(しょう きゅう、嘉靖39年10月18日 (1560年11月15日) - 泰昌1年3月15日(1620年4月17日))は琉球第二尚氏王統5代尚元王の三男。大和名は、金武王子朝公。向氏金武御殿の元祖。 童名を真三郎金といい、金武間切を領し金武王子朝公を称した。子の尚豊が8代王になると、王の父たるをもって王号を追贈された。 父王:尚元のあとを襲ったのが兄の尚永であったが、尚永には男子がなかった。万暦16年11月25日(1589年1月11日)に兄王が薨ずると、その後継に推されたがこれを固辞し、甥にあたる尚寧を推し、尚寧が7代王に即位した。 1616年に四男:尚豊・佐敷王子朝昌が国質として薩摩藩へ上国することになると、子が無事に努めを果たし帰国することができれば、御堂を建立すると観音大士に願をかけた。すると本来は十年という期間の国質であったのが、尚豊が摂政に任じられたため、その年の冬に帰国することがゆるされた。 そこで1618年に尚久は首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建てたが、これが現在の那覇市首里山川町にある首里観音堂の建立由来である。 歴代王が眠る墓所、玉陵に葬られた。 (ja)
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  • 尚 久(しょう きゅう、嘉靖39年10月18日 (1560年11月15日) - 泰昌1年3月15日(1620年4月17日))は琉球第二尚氏王統5代尚元王の三男。大和名は、金武王子朝公。向氏金武御殿の元祖。 童名を真三郎金といい、金武間切を領し金武王子朝公を称した。子の尚豊が8代王になると、王の父たるをもって王号を追贈された。 父王:尚元のあとを襲ったのが兄の尚永であったが、尚永には男子がなかった。万暦16年11月25日(1589年1月11日)に兄王が薨ずると、その後継に推されたがこれを固辞し、甥にあたる尚寧を推し、尚寧が7代王に即位した。 1616年に四男:尚豊・佐敷王子朝昌が国質として薩摩藩へ上国することになると、子が無事に努めを果たし帰国することができれば、御堂を建立すると観音大士に願をかけた。すると本来は十年という期間の国質であったのが、尚豊が摂政に任じられたため、その年の冬に帰国することがゆるされた。 そこで1618年に尚久は首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建てたが、これが現在の那覇市首里山川町にある首里観音堂の建立由来である。 歴代王が眠る墓所、玉陵に葬られた。 (ja)
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