小野ヶ滝定右エ門(おのがたき さだえもん)は、下野国都賀郡(現在の栃木県日光市)出身で錣山部屋に所属していた、江戸時代の大相撲の第92代大関。 1812年(文化9年)冬場所、西看板大関としてデビュー。その場所は2勝1敗7休で、次場所から平幕に下がり、1815年(文化12年)冬場所後に一旦番付から消滅。1822年(文政5年)冬場所に砥並山 岩之助(となみやま いわのすけ)の名で再度西前頭2枚目で復帰したが、2勝4敗4休の成績で即引退した〔1823年(文政6年)春場所は番付に名前が載ったのみ〕。 通算9場所現役だったが、成績は振るわなかった。

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  • 小野ヶ滝定右エ門(おのがたき さだえもん)は、下野国都賀郡(現在の栃木県日光市)出身で錣山部屋に所属していた、江戸時代の大相撲の第92代大関。 1812年(文化9年)冬場所、西看板大関としてデビュー。その場所は2勝1敗7休で、次場所から平幕に下がり、1815年(文化12年)冬場所後に一旦番付から消滅。1822年(文政5年)冬場所に砥並山 岩之助(となみやま いわのすけ)の名で再度西前頭2枚目で復帰したが、2勝4敗4休の成績で即引退した〔1823年(文政6年)春場所は番付に名前が載ったのみ〕。 通算9場所現役だったが、成績は振るわなかった。 (ja)
  • 小野ヶ滝定右エ門(おのがたき さだえもん)は、下野国都賀郡(現在の栃木県日光市)出身で錣山部屋に所属していた、江戸時代の大相撲の第92代大関。 1812年(文化9年)冬場所、西看板大関としてデビュー。その場所は2勝1敗7休で、次場所から平幕に下がり、1815年(文化12年)冬場所後に一旦番付から消滅。1822年(文政5年)冬場所に砥並山 岩之助(となみやま いわのすけ)の名で再度西前頭2枚目で復帰したが、2勝4敗4休の成績で即引退した〔1823年(文政6年)春場所は番付に名前が載ったのみ〕。 通算9場所現役だったが、成績は振るわなかった。 (ja)
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  • 小野ヶ滝定右エ門(おのがたき さだえもん)は、下野国都賀郡(現在の栃木県日光市)出身で錣山部屋に所属していた、江戸時代の大相撲の第92代大関。 1812年(文化9年)冬場所、西看板大関としてデビュー。その場所は2勝1敗7休で、次場所から平幕に下がり、1815年(文化12年)冬場所後に一旦番付から消滅。1822年(文政5年)冬場所に砥並山 岩之助(となみやま いわのすけ)の名で再度西前頭2枚目で復帰したが、2勝4敗4休の成績で即引退した〔1823年(文政6年)春場所は番付に名前が載ったのみ〕。 通算9場所現役だったが、成績は振るわなかった。 (ja)
  • 小野ヶ滝定右エ門(おのがたき さだえもん)は、下野国都賀郡(現在の栃木県日光市)出身で錣山部屋に所属していた、江戸時代の大相撲の第92代大関。 1812年(文化9年)冬場所、西看板大関としてデビュー。その場所は2勝1敗7休で、次場所から平幕に下がり、1815年(文化12年)冬場所後に一旦番付から消滅。1822年(文政5年)冬場所に砥並山 岩之助(となみやま いわのすけ)の名で再度西前頭2枚目で復帰したが、2勝4敗4休の成績で即引退した〔1823年(文政6年)春場所は番付に名前が載ったのみ〕。 通算9場所現役だったが、成績は振るわなかった。 (ja)
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  • 小野ヶ滝定右エ門 (ja)
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