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- 小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性。本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。藤原通憲(信西)の孫。桜町中納言・藤原成範の娘。高倉天皇の後宮。 類稀な美貌の箏の名手だったと伝わる。始め冷泉隆房の愛人だったが、高倉天皇に見初められ寵姫となる。しかし中宮の平徳子(建礼門院)の父で隆房の舅でもあった平清盛の怒りに触れ、治承元年11月(1177年12月)に第二皇女の範子内親王(坊門院)を出産したのちに清閑寺で出家させられた。元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明。 『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『』にも取り上げられている。 (ja)
- 小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性。本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。藤原通憲(信西)の孫。桜町中納言・藤原成範の娘。高倉天皇の後宮。 類稀な美貌の箏の名手だったと伝わる。始め冷泉隆房の愛人だったが、高倉天皇に見初められ寵姫となる。しかし中宮の平徳子(建礼門院)の父で隆房の舅でもあった平清盛の怒りに触れ、治承元年11月(1177年12月)に第二皇女の範子内親王(坊門院)を出産したのちに清閑寺で出家させられた。元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明。 『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『』にも取り上げられている。 (ja)
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- 小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性。本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。藤原通憲(信西)の孫。桜町中納言・藤原成範の娘。高倉天皇の後宮。 類稀な美貌の箏の名手だったと伝わる。始め冷泉隆房の愛人だったが、高倉天皇に見初められ寵姫となる。しかし中宮の平徳子(建礼門院)の父で隆房の舅でもあった平清盛の怒りに触れ、治承元年11月(1177年12月)に第二皇女の範子内親王(坊門院)を出産したのちに清閑寺で出家させられた。元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明。 『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『』にも取り上げられている。 (ja)
- 小督(こごう、保元2年(1157年) - 没年不詳)は、平安時代末期の女性。本名は不明(角田文衞説では成子とされる)。藤原通憲(信西)の孫。桜町中納言・藤原成範の娘。高倉天皇の後宮。 類稀な美貌の箏の名手だったと伝わる。始め冷泉隆房の愛人だったが、高倉天皇に見初められ寵姫となる。しかし中宮の平徳子(建礼門院)の父で隆房の舅でもあった平清盛の怒りに触れ、治承元年11月(1177年12月)に第二皇女の範子内親王(坊門院)を出産したのちに清閑寺で出家させられた。元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で彼女の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明。 『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『』にも取り上げられている。 (ja)
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