北条 時敦(ほうじょう ときあつ)は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。北条氏政村流。父は北条政長。母は長井時秀の娘。 正安元年(1299年)6月に従五位下、修理権亮に叙爵され、嘉元元年(1303年)には左近将監、弾正少弼を兼任した上で、延慶3年(1310年)従五位上に昇叙。同年から文保元年(1317年)まで越後守の官途にあった。 徳治元年(1306年)、引付衆の一員として幕政に参画し、延慶3年(1310年)には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、正和4年(1315年)、北方に転任した。この頃持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝して問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に佐藤進一の指摘によれば加賀国の守護職も担当していた。 元応2年(1320年)5月24日、京都にて40歳で死去した。 『玉葉和歌集』『続千載和歌集』にそれぞれ4首の歌が収録されている。

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  • 北条 時敦(ほうじょう ときあつ)は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。北条氏政村流。父は北条政長。母は長井時秀の娘。 正安元年(1299年)6月に従五位下、修理権亮に叙爵され、嘉元元年(1303年)には左近将監、弾正少弼を兼任した上で、延慶3年(1310年)従五位上に昇叙。同年から文保元年(1317年)まで越後守の官途にあった。 徳治元年(1306年)、引付衆の一員として幕政に参画し、延慶3年(1310年)には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、正和4年(1315年)、北方に転任した。この頃持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝して問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に佐藤進一の指摘によれば加賀国の守護職も担当していた。 元応2年(1320年)5月24日、京都にて40歳で死去した。 『玉葉和歌集』『続千載和歌集』にそれぞれ4首の歌が収録されている。 (ja)
  • 北条 時敦(ほうじょう ときあつ)は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。北条氏政村流。父は北条政長。母は長井時秀の娘。 正安元年(1299年)6月に従五位下、修理権亮に叙爵され、嘉元元年(1303年)には左近将監、弾正少弼を兼任した上で、延慶3年(1310年)従五位上に昇叙。同年から文保元年(1317年)まで越後守の官途にあった。 徳治元年(1306年)、引付衆の一員として幕政に参画し、延慶3年(1310年)には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、正和4年(1315年)、北方に転任した。この頃持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝して問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に佐藤進一の指摘によれば加賀国の守護職も担当していた。 元応2年(1320年)5月24日、京都にて40歳で死去した。 『玉葉和歌集』『続千載和歌集』にそれぞれ4首の歌が収録されている。 (ja)
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  • 北条 時敦(ほうじょう ときあつ)は、鎌倉時代後期の武将。北条氏の一門。北条氏政村流。父は北条政長。母は長井時秀の娘。 正安元年(1299年)6月に従五位下、修理権亮に叙爵され、嘉元元年(1303年)には左近将監、弾正少弼を兼任した上で、延慶3年(1310年)従五位上に昇叙。同年から文保元年(1317年)まで越後守の官途にあった。 徳治元年(1306年)、引付衆の一員として幕政に参画し、延慶3年(1310年)には従五位上に叙位され、六波羅探題南方に就任、正和4年(1315年)、北方に転任した。この頃持明院統と大覚寺統の間で皇位継承を巡る紛糾があり、時敦は大仏維貞と共に朝廷と折衝して問題の調停に尽力した。六波羅探題の北方は摂津と播磨の守護を兼備しており、時敦も摂津と播磨の守護職にあったようである。更に佐藤進一の指摘によれば加賀国の守護職も担当していた。 元応2年(1320年)5月24日、京都にて40歳で死去した。 『玉葉和歌集』『続千載和歌集』にそれぞれ4首の歌が収録されている。 (ja)
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