一行の詩

直観のままに、わくわくして生きていく

PlusUltla

その先へ。

子どもがヒロアカ2周目していて一緒に見ながら自分も入り込んで葛藤したり熱くなったりしてる。

文字通り(literal)と神話的(mystic)、2つの視点を持ちながら見る。

ヒロアカの世界は個性が文字通り現実にあらわれて描かれる。

個性というのは、その人のその人らしさみたいなもの。

たとえば爆豪勝己は手からニトロのような汗を爆発させる。

アニメという表現の中では文字通り爆発してそのエネルギーが自分の体を前進させたり敵を攻撃したりする。

爆豪勝己のもつ個性を神話的な意味で理解するとき、個人のエネルギー産生が劇薬ほどに活発であり、前進していくエネルギーであり、なんとなく太陽ぽいとか思う。

それを表すことが自分自身が生きているということなんだろう。

 

現実の人間社会では個性を活かすためにとても技術がいる。

本能的に生きていた頃には考えなくてよかったことが多くて。

動物的な部分から複雑に進化したからには個性も複雑になっていって、集団で生命をつないでいくための工夫が求められている。

じゃあ無個性のデクはどういう捉え方をするかと考えると、受け入れる能力だったり活かす能力だったり、受け継ぐ能力だったりするのかなと思った。

オールマイト(almight全能の)から受け継いだもの、受け継いでさらにその先へ。

全部を活かしていく。

自分自身がヒロアカであるとしたら、自分の中に爆豪もデクもお茶子も焦凍もオールマイトもオールフォーワンも死柄木も、全部を可能性として持っていて、どれをたくさん持ってきたか。

いつも同じではない、全く違う人間同士が生きている中で、その時その場所でわたしはどれを発現させるのかを決めていく。

ヒロアカ全部読んでないからわたしの妄想を繰り広げているだけなんだけど。

現実にちゃんと向き合って理想の先を見るヒーロー像を、ヒロアカに映し見ている。

 

子どもがアイスのレディボーデンが好きで、器に分けながら、わたし(母)、手からレディーボーデンが出てくる個性やったらどうしよ、としゃべっていた。

母「ヒーロー名、レディレディボーデンになるのかな?」

子「いや癒しヒーローレディボーデンやろ」

母「次男はレディボーデンが癒しなんやぁー」

子「手から癒しが出てくるからヒーローていうかお医者さんやな」

 

あー子どもはわたしにとって癒しヒーローかもしれない。

 

失われたさくさくを求めて

先週、親知らずが炎症を起こして痛すぎて本気で泣いていた。

3本は口腔外科で抜いたけど1本だけ残っているのが久しぶりに痛くなり。

神経の近くに生えていて、ひそっと生えているだけなら抜かずに置いておこうという歯医者さんの判断で生かされていた、左下の親知らず。

子どものことなど色々な疲れが溜まっていたのと、加齢により体力も落ちているのに今までと同じように体を酷使してしまった結果かなあと思った。

あと思うように使えてない鬱積したエネルギーが暴発したような感覚も。

歯医者さんに何回もお世話になりやっと回復してきたところで、自分を追い込んだり焦らせたりせずゆっくり休息をとりたいのだけど

何もしないでぼーっとする感覚を置いてきすぎたので、取り戻していきたい。

 

そんなこんなしてたら型抜きクッキーを食べたいと子どもに言われたので、久しぶりに一緒に作った。

子どもの頃よく砂場や運動場で透明でキラキラの砂(石英の粒らしい。わたしはキラ砂と呼んでいた)を集めていたのを思い出して、なんとなく自分で好きな形を作る。

わたしの回復法はドラマを見たりとかよりも、自然物を感じたり自然のままに何かをつくったりすることだなーと分かった。

 

左上から ミカヅキモ、「宙」、へび、ハンドスピナー、真ん中に 地球と月

家で作るクッキーは格別。子どもも大好き。形も味わい深い。

 

宇宙天気

太陽フレアの影響で電子機器が不具合を起こした話を去年聞いた。

小銭大事だねーみたいな話をしていたが、その後気になって、宇宙天気予報

というサイトを見つけて覗いたりしていた。➡ホーム | 宇宙天気予報

 

このサイトを知る前のことになるが、ワイヤレスイヤホンで動画を視聴しているとき音声が途切れることがたまにあった。

家のWiFiのせいなのかスマホのせいなのか原因がわからなかったが、何度か経験するうちに電子レンジを1000wで使用しているときにその現象が起きていることに気づいた。

 

気づいたものの、毎回途切れるわけではなくて全く影響がないときもあるし不思議だなぁーと思っていた。

そこでふと宇宙天気予報を確認して検証してみたところ、どうやら「スポラディックE層」の状態が活発になっているときにワイヤレスイヤホンへ飛ぶ電波と電子レンジから発生する電磁波がうまいこと?干渉して電波が乱れているらしい。

 

なんかそうなってるらしい、くらいしかわからないけど法則性があるとわかったような気分になれる。

脳科学の本を読んだ時、わかった気になることで脳がそれ以上活動しなくなるので、わかる気がする手前で考えるのをやめるといいと書いてあった。

脳のバックグラウンドで処理が進み、無意識の領域で正解へのルートが計算されるらしい。

本当は何もわかってないと思うことは自分自身の成長にとって大事なことなんだ、って人生訓みたいだけど、脳を上手く使ってるということなのかもしれない。

叡智は解明しなくても叡智に変わりない。

解明してわかった気になると、見失うことがあるのかも。自戒。

 

エビは友達ではないが好き、という気持ち

エビが好き。食材として。

背わたを取ってすじをのばす為の切り込みを何ヶ所か入れて、最後、昔の整体?のイメージでエビの背筋をボキッと真っ直ぐにする。

このような下処理にけっこう手間がかかり、しかもエビフライとなると1人3、4本として4人家族で12~16本。

こんなめんどくさいことが出来るのは、エビの美味しさにわたしが価値を置いているから。

自分が価値を感じているものには情熱を注げる。

 

黙々とエビの背に包丁を入れて背わたを取る。

(爪楊枝でひっぱりだす方法も試してみたけど、取り損ねることがあったりしっかり目視で確認したいので昔ながらの背開きで。)

何匹目かのエビの背わたが、見たことがないくらい太くてぎょっとした。

えっものすごい食いしん坊の個体なのか。。?

わたしの中で急にエビの擬人化が始まり、なんとも言えない気持ちになる。

最近子どもが寄生獣のアニメを見ていて、最終回を一緒に見ていたとき、このエビに対する気持ちを思い出した。

 

わたしの中には新一とミギー両方がいる気がする。

人間が持つ心のあたたかさ、残酷さ。

生物が持つ本能的な合理性。

正解のない全然違う価値観の中で何を基準にして生きていくのか。

わたしはわたし自身が生きるために何かを犠牲にしなければならない。

そんな風に考えたら悲しすぎて苦しすぎて、わたしはどうしたらいいのかわからなくなる。

「罪...?それは人間たちが人間の物差しで勝手に決めればいいだけだ。」

これはミギーのセリフ。

わたしは人間で、人間の中で生きている。

そして生物として大きな生態系の一部としても生きている。

 

エビの背わたの中身が気になって調べてみたら、腸管にエサや消化された物、砂などが詰まっているらしい。

頭の方に腸管以外の内蔵が集まっていて、無頭エビは人間で言うと下半身?

下半身に腸だけ配置された魚みたい。

そう思うとエビって人魚のモデルと言えなくもないのでは。

自分でも何を書いてるんだろうと思うが毎日こんなことばっかり考えている。

余暇を楽しめる生物に生まれてよかったな。

顕微鏡の向こう側のこと

図書館で借りた本、「プランクトンハンドブック」。

中学生のときに自然科学部に短期間所属していた。

顕微鏡でミジンコなどをよく見ていたが、そのときはそこまでプランクトンに興味があったわけではない。

シアノバクテリアの夢を見てから、肉眼で見えない世界のことにより興味が出てきた。

珪藻というプランクトンがいて、そんな形になる。。!?というくらい手芸作品のような姿をしていて、顕微鏡で観察できる時代に生まれたことに感謝したいと思った。

 

ちなみに珪藻とは。

「不等毛植物の一群であり、ガラス質の細胞壁(被殻)をもつ。葉緑体はフコキサンチンを含むため黄褐色を呈する。淡水でも海水でも非常に多く、浮遊性のものも低水性のものもいる。水界で最も重要な生産者であり、地球上の光合成の1/4を担っているともいわれている。(プランクトンハンドブックp74より)」

 

珪藻土の珪藻なんだろうなーと思うが、ケイ素の珪なのかな?と調べてみる。

たぶんそうらしい。シリカ=二酸化ケイ素なのも初めて知ったし、物質を細かくしていくと元は同じものだったり細かくしているのに分類の分かれ方は大きくなるのが哲学的でおもしろい。

 

 

 

珪藻のアート作品もあって、人間ってどんなものでも推せるんだなと、なんとなく感慨深かった。

 

 

 

 

つながっていく場所

中学受験の結果発表があって、残念ながら合格できなかったのだけど本当によい経験が出来たと思った。

本人としては悔しかっただろうけど。。

わたしは周りの反応が気になって自分のやりたいことに突き進むことが苦手だし、失敗がこわくて挑戦する勇気が無かったりする。

子どもが受験したいと言い出したとき、合格できなかったときのことが心配でわたしはあまり乗り気ではなかった。

子どもと一緒に未知の世界を手探りで進んできた感じだったが、そのひとつひとつが何か自信になったのを感じている。

もう大人になっているけど、わたしの心のなかにはわからないことがすごく怖い自分がいるみたいだった。

失敗したり恥をかいたりすることが怖い自分が、新しい道へ行こうとするのを邪魔してる。

 

子どもは、学校で友だちにからかわれるのが嫌だと言いながら、点数に反映された自分の力をなんとなく受け止めているようだった。

面接など点数だけではない要素もあり、子どもなりにあれこれ考えてもいる。

本人の希望による受験だったので親からのプレッシャーは少なかったと思うが、逆に逃げ道のないプレッシャーがかかっていたと思う。

誰かの決めた道を進むことは自分の人生の責任から逃げることだ。

自分の人生と向き合うことがこんなに苦しいなんて知らなかったし、向き合った先にある美しさも知らなかった。

 

逃げ道を断って前に進む勇気を子どもが教えてくれている。

前に進む勇気を持てるのは、心に安全な場所があるから。

それを作ってきたのは母であるわたしや父である夫、これまで子どもが出会ってきたひと、もの、こと、つながり。

わたしの中にも安全な場所が出来てきている。

 

 

 

 

今年もよろしく

今年のお正月は、上の子の冬期講習と下の子の体調不良で、新年のあいさつもそこそこにぐるぐると過ぎていった。

今日の受験日を迎えるまでにいろんな学びが親子ともにたくさんあり、大きく成長したような気がしてる。

ほんとに色んなことがあったものの、今日健康でトラブルもなく無事に受験会場にたどりつき、一日、試験と面接を受けきることが出来たこと、これ以上ない達成感と感謝と解放感に浸っている。

今日から受験シーズン突入とのことで、全国で受験生とその保護者はこんな風に感じているんだろうな。。と、まだ試験の日程が続く方へ応援の祈りを向けずにいられない。

「がんばってきたからきっと大丈夫。」

受験戦争と言われるくらいだから綺麗事ではないけれど、少ない椅子を取り合うような時代は終わっていき、それぞれの居場所で光を放てる時代がもうすぐそこまで来ている。

受験のためにがんばった色んな経験が自信になるんだろうなと確信を持つことができたから、未来と自分を信じて一緒に歩いていこう。