整頓せずにつめ込んできた憂鬱が扉の留め金の弱っている戸棚からなだれ落ちてくるのは、きまって夕方だ。夜が近づくにつれ下がってきた部屋の温度や、紙ばさみに目を落としている絃の、まだ会社での緊張が解けていない肩が、なぜか耐えられないほどに切ない。 鍋が煮えるまで、またはグリルで魚が焼けるまでの、何もすることがないこの空白の時間を、私はうまく過ごせない。おかえりなさいから夕食を食べるまでの、日常の隙間の四十分が人を絶望させる力を持っているなんて、絃に会うまでは知らなかった。台所から漂う魚の焼けるいい匂いが部屋に満ち、日が落ちて暗くなってきた外に対して蛍光灯の放つ光は嫌味なくらい隅々まで部屋を白く照らし、ソファの黒革は太ももの裏に冷たい。帰ってきてから絃がほとんどしゃべっていないことがどうしても気になる。思わず口を開いてしまう。
しょうがの味は熱い 整頓せずにつめ込んできた憂鬱が扉の留め金の弱っている戸棚からなだれ落ちてくるのは、きまって夕方だ。夜が近づくにつれ下がってきた部屋の温度や、紙ばさみに目を落としている絃の、まだ会社での緊張が解けていない肩が、なぜか耐えられないほどに切ない。 鍋が煮えるまで、またはグリルで魚が焼けるまでの、何もすることがないこの空白の時間を、私はうまく過ごせない。おかえりなさいから夕食を食べるまでの、日常の隙間の四十分が人を絶望させる力を持っているなんて、絃に会うまでは知らなかった。台所から漂う魚の焼けるいい匂いが部屋に満ち、日が落ちて暗くなってきた外に対して蛍光灯の放つ光は嫌味なくらい隅々まで部屋を白く照らし、ソファの黒革は太ももの裏に冷たい。帰ってきてから絃がほとんどしゃべっていないことがどうしても気になる。思わず口を開いてしまう。「絃、どうかしたの」「なに?」 紙ばさみから目を離し私を見る目つきは、仕事のことで頭がいっぱいなせいか、どこか鋭い。「なんだか沈んでるみたいだから」「そうかな。まあ疲れてるけど」「会社でなにかあったの」「ちょっと」 絃はまた会社から持ってきた仕事に戻る。今日は休日出勤だったのにまだ働いている。なにを......
(部屋を出ていく決心がつかない)やっと自分専用の水飲み場を見つけて、飲んだ水が指の先の細胞まで行き渡ってもまだ、涙となって外に流れ出てもまだ、顎を上向けたまま蛇口の下を離れずにいた。飲みこぼした分が内股で座っている脚を濡らしても、周りが呆れて誰もいなくなっても、身体が冷たくなってもまだ動かない。まだまだ飲みたりないのに水は枯れてきて細くなり、一滴でも逃がさないように舌をつき出している。
......う根本的な問題を、考えてみるだけの余裕が今まで無かった。あまり深くは追求したくはなかったけれど、でもやはり私はどこかでなにかを間違ったまま置き去りにしている。 やっと自分専用の水飲み場を見つけて、飲んだ水が指の先の細胞まで行き渡ってもまだ、涙となって外に流れ出てもまだ、顎を上向けたまま蛇口の下を離れずにいた。飲みこぼした分が内股で座っている脚を濡らしても、周りが呆れて誰もいなくなっても、身体が冷たくなってもまだ動かない。まだまだ飲みたりないのに水は枯れてきて細くなり、一滴でも逃がさないように舌をつき出している。 私たちは同じものを食べ、同じ寝床にもぐりこみながら、将来住みたい場所さえ違うんだから、今私たちがこの部屋にそろっていることは、ほとんど偶然みたい。 いつか人生......
(通いなれた女の部屋)この臭いと懶惰が俺の生活に融け込み、同色の色合いみたいに適応を遂げたのである。恰も、動物が己れの穴の温みと臭気とに懶く屈んで眼を閉じているようなものであった。或は、俺の落伍的な怠惰が、その温みを女とこの部屋に染したのかもしれなかった。
......ら、うちわで俺を煽いだ。来ないことを知ってでもいるような口吻だった。それから、その云い方にも草いきれのような生臭さと、気だるさがあった。 これだ、と俺は考えた。この臭いと懶惰が俺の生活に融け込み、同色の色合いみたいに適応を遂げたのである。恰も、動物が己れの穴の温みと臭気とに懶く屈んで眼を閉じているようなものであった。或は、俺の落伍的な怠惰が、その温みを女とこの部屋に染したのかもしれなかった。しかし、それは絶えず俺を苛立たせる結果をもっていた。 女はゆるくうちわを動かしている。俺は薄べりに背中をつけたまま、することがない。門倉は明日の朝、九州に行くだ......
松本 清張 / 真贋の森「松本清張ジャンル別作品集(3) 美術ミステリ (双葉文庫)」に収録 amazon関連カテ倦怠期
女との間に醱酵した陰湿な温もり
......う気は決してしないのである。 どこかに或ることを完成した小さな充実感があった。気づくとそれは、酒匂鳳岳という贋作家の培養を見事に遂げたことだった。 間もなく俺は女との間に醱酵した陰湿な温もりを恋い、白髪まじりの頭を立てて、民子を捜しに町を歩いた。......
松本 清張 / 真贋の森「松本清張ジャンル別作品集(3) 美術ミステリ (双葉文庫)」に収録 amazon関連カテ倦怠期
夫には刺のある沈黙を貫く
......た。 城戸は最初、その突拍子もない疑心暗鬼を笑って否定して、妻に何か別のストレスがあるのではないかと心配した。そう言うと、香織は首を振っただけだったが、その後、夫には刺のある沈黙を貫く代わりに、息子に厳しく当たるようになり、それが目に余るので、到頭、彼も腹を立ててしまった。 怒りを爆発させたというほどの勢いもなく、寧ろ一種の無力さから、彼は、......
僕は前にも増して彼女の前でふざけるようになった。嫌な予感が入りこむ 隙間 を埋めたくて死に物狂いでふざけた。
......る雰囲気ではなかった。それまでの勝手で横暴な振る舞いは沙希に許されていたからこそ通用していただけだった。沙希は僕の前で思いつめた表情を浮かべることが多くなった。僕は前にも増して彼女の前でふざけるようになった。嫌な予感が入りこむ隙間を埋めたくて死に物狂いでふざけた。舞台で使用した変なお面を使うことさえも辞さなかった。沙希を楽しませることよりも自分が愚かであることを証明したいという気持ちが強かったのかもしれない。 考えだすと......
サトウとの生活は錆付いた沼のようにひっそりと淀んでいた。
......った。彼らはわたしになど惑わされず、彼らのスタイルで食事をし、会話を楽しみ、微笑み合った。そして同時に、決してわたしを孤独にしなかった。 彼らへの訪問の合間で、サトウとの生活は錆付いた沼のようにひっそりと淀んでいた。 その日わたしが、自分の部屋に閉じこもっていたのは、サトウとのちょっとしたけんかが原因だった。サトウがわたしの用意した昼食に文句をつけたか、わたしの聴いていたレ......
小川洋子 / 冷めない紅茶「完璧な病室 (中公文庫)」に収録 amazon関連カテ倦怠期
(熱情が冷める)弾力を失ったゴム糸のように間抜けてゆるく、二人の間は段々と延びて行くように感じられた。
......かった。夜が更けるに従って、彼は寧ろ苦痛になって来た。登喜子との気持も二度目に会って彼が自分のイリュージョンを捨てたと思った時が寧ろ一番近かった時で、それからは弾力を失ったゴム糸のように間抜けてゆるく、二人の間は段々と延びて行くように感じられた。彼は今も猶登喜子を好きながら、それが熱情となって少しも燃え立たない自分の心を悲しんだ。愛子との事が自分をこうしたと云いたい気もした。然し実は愛子に対する気持が既......
あと 7 個の表現が登録されています
ログインして全部見る