その特徴といえるのは、コマをどうやって割るべきか、一コマ、一ページにセリフはどれだけ割り当てるべきか、めくりを意識したコマ配置、見せ場をおくべきコマはどこか──といった、細かいレベルから技術的な話を繰り返していく点にある。また、森・入江はどちらも高い技術を誇り自分なりの理論を構築している漫画家だが、大場編集はより多くの漫画に普遍的に使えるメソッドとして練り上げていて──と、作家側と編集側の視点が同時に読めるのが本書の場合良い効果をあげていると感じた。
ストーリーの作り方、キャラの立て方、視線誘導など、およそおよそ思いつきそうな内容は取り上げられているから、漫画を描く人はもちろん、僕のように漫画を描くつもりはないが、漫画を技術面からも理解したい人にも薦めたい一冊であった。あと僕は単純に森薫・入江亜季作品のファンなので、二人が何を考えてコマを割ったりストーリーを作ったりしているのが知れて、それだけでも十分満足させてくれた。
すべての基本となるコマ割りの話
本書で最初に収録されているのは漫画の基本となる「コマ割り」周りの話で、森薫さんによれば「コマ割りをする際には1ページあたり、3段組・7コマを基本に考えています」という。雑誌のサイズからいえば3段組・7コマくらい(最大でも9コマ)が読みやすいからとその理屈が述べられていくが、その後を大場さんが引き継いで、コマ同士の時間は右から左へ流れ、さらにコマの中の時間も原則として右から左に流れる──として、コマ割りと作品内時間の関係性についての解説が加わっていく。
で、最初に「3段組」をコマ割りの基本として考えると書いたが、段ごとに「フリウケ」(読者が興味を持つ「フリ」を提示し、納得できる「ウケ」を用意すること)を作るのもコマとコマをおもしろく繋げるためには重要だという。たとえば段落の最後のコマでおじさんが「おはよう」などの呼びかけを行い(フリ)、それに対して次の段の最初のコマで呼びかけられた若者が「嫌そうな顔をする」、単純な動作ながらもこれも「フリウケ」だ。なぜ嫌そうな顔をするのか? がフックになっているからだ。
段ごとに、最後のコマでフリ、次の段の最初のコマでウケる。これを繰り返すことで、読者を飽きさせることなく、次の段へ、次の段へと読ませることができます。
もちろん、フリウケの強度は一定ではありません。弱いフリウケも出てきてしまうし、フれない段もあるでしょう。ここで大事なことは、ページの最後のフリと、ページの最初のウケ、ここの強度だけは最優先で考えることです。理由は分かりますね? ここの強度さえあれば、読者を次のページに読み進めさせることができるのです。p.013
ここまでの大場さんの解説を受けて、そこからは入江さんが「段」が持つ意味(段組みは文章で言う段落であり、1段ごとに次の展開へ進んでいく)を語り、その次には当然ページを挟んだ最初のコマと最後のコマをどうすべきなのかという演出論が始まり──と、コマ割りひとつとっても広汎なテーマが語られていておもしろい。
禁止の話
大場さんが自分が担当している漫画家に禁止している表現の話も(いくつかあるんだけど)おもしろかった。絶対やるなというほどのものではないし(実際に入江さんがそれでもあえてやっているコマなども実例として出てくる)、これについては反発する漫画家も多そうだなと思うが、読んでいて理屈としてはたしかによくわかるものばかり。
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たとえば、入江さんは『群青学舎』の連載中に「ヨコ1コマは原則禁止」を言い渡されたという。これは上記の引用部をみてもらえればわかるが、横一段を1コマにすることだ。そして、意識して読んでみると世にはヨコ1コマを使う作品が多い。ベテランが描いた漫画でもヨコ1コマを連打していたりする。で、別に読んでいて問題を感じないのに、なぜ禁止されているのか。上記のヨコ1コマの具体例も魅力的なのに。
ひとつには、コマ割りで表現できるはずの(フリウケなどの)高等技術をヨコ1コマでは考える必要がなく、コマ割りの技術が育たない。加えて、下記引用部だという。
また、1コマに入れる情報は一つ、という不文律もあります。ヨコ1コマは、1ページに何コマ入るでしょうか。せいぜい4コマか5コマでしょうか。7コマや8コマの漫画には情報量で太刀打ちできません。視線誘導を学んだら、その数字以上の格差を思い知ると思います。p.036 冬木注:入江さんが書いているパートの文章
他にも大場流禁止ルールとしては最後のコマを小さくする「チャンチャンって感じで締める表現」は禁止だとか。これは純粋に形式論・メタ表現としての漫画の終わり方の約束で、内容にかかわらず無理やり話を終了させる表現で、内容的に着地してなくてもなんとなくそれっぽくなるが読者は置いてけぼりになる可能性があるから──だとかもおもしろいが、漫画家自身の経験から生み出した禁止もおもしろい。
お約束の漫画表現であっても、再考する
たとえばよく漫画表現ではコマの枠線の外側の空白を黒く塗ることで「回想シーンである」としている。しかし、お約束の表現としてはある程度浸透しているにしても、はじめて漫画を読んだ人からすれば、枠外が黒だ!=回想シーンだとはならないだろう。森薫さんは「過去の記憶が黒くなることはなく、過去は薄れていくものだと思います」といって、回想シーンは描線やトーンを薄めにしていって、薄れ具合がどれぐらい過去かと関連している表現に変更したのだという。
漫画としてのお約束の表現であっても、再考して自分の肌感覚に合うものに変えていくことが重要なのだろう。これは「禁止されている表現」や「使うべきではないとされる表現」についても同様と考えるべきだ。たとえばヨコ1コマ禁止などもあくまでも大場編集がその担当作家にたいして用いているルールであって、多用した作品がダメな作品というわけではない。しかし、「なぜ禁止され得る表現なのか」という理屈も知った上で、あえて破る価値があると感じた時にやった方が効果的に使えるはずだ。
おわりに
他にも、日本の漫画は基本的に右から左に読んでいくから、キャラの立ち位置の原則としては視点人物は常に右側にいて左向きだというキャラの立ち位置演出。右側から左側に向かうのは過去から未来へ向かうのと同義だから、ピンチの時には前のページに向かっての動きを入れる。1ページのコマ割りの中で、背景が細かく描いているコマと真っ白の何も背景がないコマをどう使い分けるのかなど、技術論が目白押しだ。
特に最後の「真っ白な背景のコマ」をどういう時に使うべきなのか? という観点は個人的には驚いたな。いつも「この背景がないコマは描くのが面倒くさいから以外のどういう理屈で存在するのだろう」と疑問に思いながら読んでいたから。こういう、「なんとなく疑問に思っていたこと」に回答や理屈を与えてくれる本なのだ。*1
*1:ただ最後に注釈で注意しておきたいのは、漫画という表現も今では多様な形に広がっていて、スマホで読むのを前提とした漫画、縦読み漫画、なろう系など小説のコミカライズ、4コマなど媒体・作品・読者層などにおいて何が最適なのかは変わりうる。あくまでも今回の著者の三人が主戦場としてきた、「月刊誌などある程度時間的余裕のある」、「紙の雑誌」で掲載する漫画であることを前提とした技法ではある。