とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

ダニの驚きの生態

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


吸血のプロセス

 


さておもしろいのはここからである。ダニの狩りの様子は分かった。

 


ではダニはどうやってこの狩りを行っているか?

 


まずどうやって待ち伏せの場所を見つけるのだろうか?

 


実はこのダニは目が見えない。己の表皮全体に分布する光覚という器官を使って、

 


光のあるなしをまさしく全身で感じ取るしかない。

 


それなのに、なぜかうまく待ち伏せに適切な枝を見つけ、そこによじ登っていくのである。

 


では待ち伏せの場所がうまく見つかったとして、今度はどうやって獲物の接近を知るのだろうか?

 


このダニは目が見えないのだった。

 


ならばどうするか? 音で?

 


いや実はこのダニは耳も聞こえないのだ。

 


獲物が近づくガサガサという音に反応することもできないのである。

 


ダニは枝で待ち伏せしている。

 


その下を哺乳類が通るのを待つ。

 


おそらく獲物は、自分の背丈の百倍以上も離れたところを通りかかる。

 


そんなに遠くにいる獲物に向かって、目も耳も使えないこの小さな動物がダイブして飛びつこうとするのである。

 


ダニはどうやってその好機をつかむのだろうか?

 


ダニが哺乳類の接近を知るのは嗅覚によってである。

 


ダニは視覚も聴覚もないが非常に発達した嗅覚をもっている。

 


哺乳類の皮膚からは酪酸と呼ばれる物質が発せら

れているのだが、ダニはそのにおいを嗅ぎとるのだ。

 


この酪酸のにおいが、「見張り場から離れて身を投げろ」というシグナルとして働く。

 


言い換えれば、ダニは見張り場所で、ひたすらこのにおいを待つのである。

 


さて、運よくダニの待ち望んでいたにおいが漂ってきたとしよう。

 


ダニは飛び降りる。だが、そのダイビングが成功する保証はない(繰り返すが、においを感じ取ったから飛び降りるというだけであって、獲物めがけて飛び込むことはできないのだ)。

 


地面に落ちるかもしれないし、他の枝に引っかかるかもしれない。

 


いずれにせよ、失敗すれば見張り場所となる枝までもう一度登らなければならない。ならばダニはどうやってダイビングの成功を知るのだろうか?

 


耳も聞こえなければ、目も見えないというのに。

 


ダニがダイビングの成功を知るのは、その鋭敏な温度感覚によってである。

 


ダニは自らの獲物である哺乳類の体温を知っている。その体温を感じ取ると、自らのダイビングの成功を知って次の行動に移るのである。

 


この温度感覚は本当に鋭敏である。ダニは単に温かさを感じ取るのではない。

 


ダニは正確に摂氏3度の温度を感じ取る。

 


着地点が温かくとも、温度がそれ以上やそれ以

下であったら、ダニは次の行動へと移らず、もう一度見張り場所に戻ろうとする。

 


着地点の温度が摂氏3度であったならば、今度は触覚を使ってなるべく毛の少ない場所を探す。

 


適当な場所が見つかると獲物の皮膚組織に頭から食い込む。こうしてダニは温かな血液にありつく。

 


感想

 


ダニの驚くべき生態を知りました。

 


バカにできないと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『暇と退屈の倫理学

 國分 功一郎

 新潮文庫

 

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ダニの世界

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


ダニの世界

 


ヤーコプ・フォン・ユクスキュル はエストニア生まれの理論生物学者

 


ハイデルベルク大学で動物比較生理学の研究に従事し、そのなかで「環世界」という概念に思い至った。

 


この発想が非科学的と思われたのか大学での職にはありつけず、フリーの身で研究を続けた。

 


だが62歳のとき、ハンブルク大学に設立された環世界研究所の名誉教授となり、その後、10年間にわたり、若い研究者の指導にあたった。

 


その後、ユクスキュルの見解はさまざまな分野に大きな影響を与えることになった。

 


ではユクスキュルの言う環世界とは何か?

 


私たちは普段、自分たちをも含めたあらゆる生物が一つの世界のなかで生きていると考えている。

 


すべての生物が同じ時間と同じ空間を生きていると考えている。

 


ユクスキュルが疑ったのはそこである。

 


彼はこう述べる。

 


すべての生物がそのなかに置かれているような単一の世界など実は存在しない。

 


すべての生物は別々の時間と空間を生きている。

 


これだけ聞くとSFのようである。

 


そこで、ユクスキュルがその著書『生物から見

た世界』の冒頭で掲げる実に印象的な事例を見ながら、その意味するところを考えていきたい。

 


登場するのは、とても小さな生物である。

 


この本は牧歌的な田舎の情景の描写から始まる。

 


田舎に住んでいると、犬を連れて森や林のなかを歩き回ることも多いだろう。

 


そんな人なら、茂みの小枝にぶら下がっている小さな動物について知っているに違いない。

 


そいつはそこにぶら下がって、獲物を待ち伏せている。

 


人間でも動物でもいい。適当な獲物が見つかると、それに飛びついて生き血を腹いっぱい吸う。

 


そいつはもともとは一ミリか二ミリの小さな生き物だ。

 


だが、生き血を吸うや、たちまちエンドウ豆大にふくれあがる。

 


感想

 


すべての生物がそのなかに置かれているような単一の世界など実は存在しない。

 


すべての生物は別々の時間と空間を生きている。

 


という箇所がどこかで聞いたことがあると思いました。

 


ここから来ているのかと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『暇と退屈の倫理学

 國分 功一郎

 新潮文庫

 

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世界と関わるとは

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


石/動物/人間

 


当然反論もあるだろう。

 


だが、ここではしばらくハイデッガーの言うことに付き合ってもらいたい。

 


ハイデッガーは次の三つの命題を提示するのである。

 


(1)石は無世界的である。

(2)動物は世界貧乏的である。

(3)人間は世界形成的である。

 


何かおかしなものが紛れ込んでいる。

 


なぜ「人間」と「動物」に並んで「石」なのか?

 


この疑問は正しい。この命題は人々を失笑させずにはおかない。

 


ハイデッガーとしては石は物質的な物の例なのだそうだが、この点はおいておこう。

 


ここでは第二命題および第三命題について考えよう。

 


ハイデッガーによれば、人間はある物をある物として経験することができる。

 


たとえば太陽を太陽として経験することができる。したがって、世界を世界として経験できることになる。

 


人間は世界そのものに関わることができる。

 


世界そのものと関係をもち、それを作り上げていくことができる。

 


このことを指して彼は「世界形成的」と呼ぶ。

 


それに対し、動物はある物をある物として経験することができない。

 


トカゲにとっては岩は岩ではなく、ひなたぼっこをするための台である。

 


それぞれの動物は、それぞれの仕方でしか世界と関われない。

 


トカゲはトカゲなりの仕方でしか世界と関係を

もてない。

 


動物がもつ世界との関わりは限定されている。

 


そのことを指してハイデッガーは「世界貧乏的」と呼ぶ(ちなみに、「びんぼう」ではなくて、「ひんぼう」と読む)。

 


だが、これだけではまだイメージがはっきりしないだろう。

 


動物がある物をある物として経験することができないとはどういうことなのか?

 


世界そのものと関われないとはどういうことなのか?

 


どんな生物であろうとこの世界のなかに生きているではないか!

 


そう疑問に思うのは当然だ。

 


感想

 


たしかに、世界そのものと関わるとはどういうことなのか疑問は残りました。

 


下記の本を参考にしました

 


『暇と退屈の倫理学

 國分 功一郎

 新潮文庫

 

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ひなたぼっこするトカゲについて考える

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


ひなたぼっこするトカゲについて考える

 


突然だがトカゲのことを考えたい。

 


岩の上でひなたぼっこをするトカゲのことである。

 


トカゲのような変温動物は日光で体を温めてから活動を開始する。

 


たとえば岩の上に体を乗せて、太陽の光を浴びる。ひなたぼっこする。

 


私たちはそれを眺めながら、「トカゲが岩の上に乗って太陽の光を浴びている」と言う。

 


トカゲ/岩/太陽の三つの独特の関係をそこに見出す。

 


だが、よく考えてもらいたい。

 


トカゲについて考えるなら、そのような見方では不十分ではないだろうか?

 


トカゲについて考えるとは、トカゲをトカゲが生きている世界のなかで捉えるということだ。

 


たとえば、古代エジプト人間について研究するとき、現代日本社会の常識でそれを眺めてはならない。

 


古代エジプト人間について研究するためには、その人間が生きていた古代エジプトという世界について知らなければならない。

 


もちろん、現代の日本社会を生きる人間が古代エジプトという世界を理解するのは困難であるし、限界もある。

 


しかし、だからといって知らなくてよいことにはならない。

 


研究者はさまざまな手段を駆使して、この限界に挑戦する。

 


ならば同じことをトカゲについても言わねばならない。

 


トカゲのことを考える際、現代日本社会の常識でそれを眺めてはならないのは当然だが、人間の常識でそれを眺めてもいけない。

 


トカゲを理解するためには、トカゲの世界を理解しようと努めなければならない。

 


すると、ひなたぼっこするトカゲについて考えることは案外困難である。

 


トカゲの身になってトカゲを眺める必要があるからだ。

 


私たち人間はそこにトカゲ/岩/太陽の三つの独特の関係を見ているが、それはトカゲ自身にとってはいかなるものなのだろうか?

 


トカゲ自身は太陽の光や岩をどう経験しているのだろうか?

 


感想

 


トカゲについて考えるとは、トカゲをトカゲが生きている世界のなかで捉えるということだ。

 


という箇所が印象的でした。

 


下記の本を参考にしました

 


『暇と退屈の倫理学

 國分 功一郎

 新潮文庫

 

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退屈と人間

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


退屈こそは人間の可能性の現れ

 


退屈こそは人間の可能性の現れである。ハイデッガーはそう考えた。

 


その可能性とは自由のことだ。人間は退屈する。

 


いや、退屈できる。だからこそ自由である。

 


ハイデッガーはそこから決断の必要を説いた。  

 


決断によって人間の可能性である自由を発揮せよ、と。

 


この結論にはどうも納得できないところがある。

 


別の観点からこの問題について考えてみたい。

 


ハイデッガーは人間は退屈できるのだから自由であると考えている。それだけではない。

 


彼は人間だけが退屈すると考えている。

 


つまり、人間は退屈するが、動物は退屈しないと考えている。

 


たとえばラッセルも同じようなことを述べていた。

 


動物ならば健康で食べる物が十分にあれば幸福である。人間だけが退屈に悩むのだ、と。

 


しかし、本当に退屈の有無によって人間と動物を区別できるのだろうか?

 


もし退屈の有無が動物と人間を区別するのだとしたら、そのとき、人間や動物はいったいどのような存在として考えられているのだろうか?

 


実は大変興味深いことに、ハイデッガーは退屈について論じた後、動物について論じている。

 


ある生物学者を批判的に検討しながら、動物と人間の区別について論じているのだ。

 


感想

 


退屈の有無によって人間と動物を区別できるのだろうかと、疑問に感じます。

 


区別するものは何か気になります。

 


下記の本を参考にしました

 


『暇と退屈の倫理学

 國分 功一郎

 新潮文庫

 

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「なんとなく退屈だ」は避けたい

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


第三形式と第一形式の関係

 


こうして退屈の三つの形式が出揃った。

 


これら三つの形式は単に並列されるものではないのだった。

 


第一形式から第三形式へと向かうにつれて、退屈はより深くなっていくのだった。

 


この深さは単に言葉の上でのことではないし、深く見えるということでもない。

 


第三形式が最も深い退屈であるとはどういうことかと言うと、この第三形式からこそ、他の二つの形式が発生するのだ。

 


これはけっして理解するに難しいことではない。

 


第一形式は駅で列車を待つときに感じられた退屈であった。

 


だが、なぜ列車を待つことにあれほどの退屈を感じるのか?

 


駅舎が言うことを聞いてくれないから、つまり、私たちの望む通りに列車を提供してくれないからである。

 


では、なぜそれが退屈へと結びつくのか?

 


時間を失いたくないと思っているからだ。

 


ならば、なぜ時間を失いたくないのか?

 


日常の仕事に使いたいからだ。

 


時間を無駄にしたくないから、日常の仕事のために時間を最大限に使用したいからだ。

 


となると、ハイデッガーが言っていた通り、日々の仕事の奴隷になっているからこそ、私たちは第一形式の退屈を感じるのである。

 


もしそこから自由であったなら、列車の到着まで待たなければならないぐらいでそんなに焦ったり、退屈を感じたりはしないはずだ。

 


しかし更に問うてみよう。

 


なぜ私たちはわざわざ仕事の奴隷になるのだろうか?

 


なぜ忙しくしようとするのか?

 


奴隷になるとは恐ろしいことではないだろうか?

 


いや、そうではないのだ。

 


本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。

 


私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。

 


私たちの最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい......。

 


故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである。

 


第一形式の退屈をもたらすのは、第三形式の退屈なのである。

 


「なんとなく退屈だ」という声から何とか逃れようとして、私たちは仕事の奴隷になり、その結果、第一形式の退屈を感じるに至るのだ。

 


感想

 


「なんとなく退屈だ」という声から何とか逃れようとして、私たちは仕事の奴隷になり、その結果、第一形式の退屈を感じるに至るのだ。

 


という最後の箇所が説得力を感じました。

 


下記の本を参考にしました

 


『暇と退屈の倫理学

 國分 功一郎

 新潮文庫

 

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ふと聴こえてくる声

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 

 


気晴らしはもはや許されない

 


この第三形式もこれまでと同様、気晴らしの観点からまず分析されねばならない。

 


そして、既に述べた通り、この退屈に対してはもはや気晴らしということがあり得なもはや気晴らしは無力である。

 


第一形式では、退屈に対抗するという仕方で気晴らしが存在していた。

 


第二形式では、退屈を何となく回避するという仕方で気晴らしが存在し、それが退屈と絡み合ってしまっていた。

 


両者を比べると、第二形式では気晴らしが弱くなっているように思える。

 


つまり、退屈が深さを増すにつれて、気晴らしは次第に力を失っていく。

 


そしてこの第三形式においては、まったくの無力となる。

 


それだけではない。ハイデッガーは奇妙なことを言う。 

 


この退屈の第三形式においては、私たちは気晴らしがもはや許されないと分かっているというのである。

 


気晴らしが許されない?

 


しかもそれを私たちは分かっている?

 


なんとかハイデッガーの言わんとするところに迫ってみよう。

 


第一形式において人は退屈を気晴らしによってかき消そうとする。

 


言い換えれば、退屈の言うことを聞く必要をなくしてしまうことに向けて努力する。

 


ぐずつく時間によって振り回されることのないよう、何かやるべき仕事を探すわけだ。

 


第二形式においては、そもそも私たちは聞くことを欲しない。退屈に耳を傾けようとしていない。

 


退屈に直面せず、ただそれにひたっている。

 


ならば第三形式においてはどうだろう? ハイデッガーはこう言う。

 


ここでは私たちは、退屈に耳を傾けることを強制されている。

 


「なんとなく退屈だ」という声。

 


この声は私たちの存在の奥底から響いてくる。

 


だからこそ、そこからは逃れられない。

 


いや、逃れられないように感じる。

 


耳を傾けねばならないと感じる。

 


だから、「なんとなく退屈だ」という声に対して私たちは、気晴らしがもはや許されないことを了解しているとハイデッガーは言うのである。

 


もうすこし言い換えると、こうなるだろうか。

 


日常生活のなかで、ふと、「なんとなく退屈だ」という声が聞こえてくることがあるのではないか、とハイデッガーは言っているのである。

 


そして、その声が私たちの心の底から聞こえてくるのであれば、どうやってもそこに耳を傾けないわけにはいかないではないか、と言っているのである。

 


ハイデッガーの言うことに実感をもって同意できなくてもいい。彼が言いたいことは、なんとなく分かっていただけただろうか。

 


感想

 


日常生活のなかで、ふと、「なんとなく退屈だ」という声が聞こえてくることがあるのではないか、という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、こう感じることはあるので。

 


下記の本を参考にしました

 


『暇と退屈の倫理学

 國分 功一郎

 新潮文庫

 

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