東浩紀(批評家・作家) vol.1 「『レッテル張り』で政治を語るのは簡単ですけど、僕はやりません」

佐々木: 東さんが朝日新聞の「論壇時評」を書いていることは、業界では衝撃的な話として受け止められていますよ。

東: そうでしょうね。

佐々木: かつての論壇のような場はとうに消滅したと言われています。それでも新聞は自分たちこそ論壇の中心だと思い込みながらここまでやってきた。

 でも今回、朝日新聞で東さんが論壇時評を書いていることを見ると、新聞も徐々にネットの議論に軸足を移そうとしているかのようにも思えます。

 今後ネットとマスメディア、あるいは論壇があるのとするなら論壇の、それぞれの関係、構造はどう変わっていくのでしょうか。

 それは補完関係にあるのか、あるいはマスメディアなき時代においてはネットだけで言論空間が成り立つのか、そこでどういうことが起きてくるのか。今日は、そんな話をおうかがいしたいと思っています。

東: 分かりました。

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 論壇時評を引き受けた経緯は、去年の12月ごろに朝日新聞さんからお話をいただいたからです。論壇時評を書くとなると、かなり論壇誌とか読まなくてはいけないので大変といえば大変ですから、最初はかなり迷ったんです。

 でもね、僕にはたまたま回ってきたんだと思うんですよ。これはまったく推測なんですが、きっといろいろな調整がうまく行かなくてたまたま僕に回ってきたんです。

 そのときに僕が断ってしまったら、おそらく僕より上の世代にまた戻っていく。ある意味、世代交代の絶好のチャンスだなと思ったんですよ。

 だから、僕自身がやりたいかやりたくないかっていうこととは関係がなく、世代交代を進めるためにもここで断ってはいけないと、頑張ってやることにしたんですね。

佐々木: いま論壇誌そのものが、全体数としてものすごく数が減っちゃっているじゃないですか。その中でいったい何を論壇として捉えるのかという、その枠組みはどう考えるんですか。

ツイッターをなぜ取り上げられないのか

東: 最初は新聞社にツイッターとかブログとかを積極的に取り上げてくれと言われていて、僕もそういうつもりだったんです。でも冷静に考えてみるとツイッターって、例えば、何月何日佐々木俊尚はこう言ったみたいなことを書いてURLを貼り付けてもしょうがないメディアなんですよね。

佐々木:  そうですね(笑)。

東: だから逆に論壇時評をやることによってあらためてわかったんです。ブログだと結構長いエントリーがあるので、そのエントリーを一つの論文に見立てて取り上げることは出来るんですが、ツイッターやユーストだと必然的に現象として取り上げざるを得なくなるんですよ。

佐々木: なるほど。

東: 現象をまとめるやり方ではある種の限界があります。ネットと論壇というよりも、ブログとツイッターやユーストのあいだはすごく大きな落差があると思いました。

佐々木: ブログはコンテンツ一つ一つ、エントリー一つ一つが言論として成立する。

東: ええ。

佐々木: しかしツイッターとかユーストだと現象になってしまって、それを一個一個取り上げることにあまり意味がないっていうことですか。

東: そうですね。コミュニーションが連鎖しているし、まさにソーシャル・メディアであって、みんなが群としてどっかに動いてるって感じなんです、やっぱり。

佐々木: 新聞の紙面の限られた文字数で、その群の動きを捉えるのはかなり困難ということですね。

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東: 困難だし・・・。やっぱり誰かが書いた文章っていうのは、「その人が書いた」という確固たる現実を起点として論壇時評を書けます。でも現象を捉えるとなると「そんな現象が大事って言っても、おまえがそう思ってるだけじゃないの」って言われたらアウトですからね。

佐々木: なるほど。

東: 今年、もしネット論壇みたいなものの変容を取り上げるんだったらば、ツイッターとかユーストリームなんですよ。けれどもそれはすごく難しい。

 朝日新聞だからっていうんじゃなくて、論壇時評っていう枠組みが、誰かがこう言って、また誰かがこう話して、こことそことの間には差違があって、こういうような議論が望まれるーー、そういう語り口そのものが、ツイッターとかのダイナミズムを捉まえられないんだなっていうことが、論壇時評をやって分かりましたね、逆に。

佐々木: なるほど。ジャーナリズムは、あるいは論壇は、といってもいいのかも知れませんが、かつては一つ一つの記事や書かれたことが、完結したある種の言説だった。それがインターネットが出てきてから、変わりましたね。ぼくはコミュニケーション・ジャーナリズムと言ったことがあるんですが、やりとりをすること自体が一つのジャーナリズムの在り方だというふうに変化してきていると思うんですね。

 そうすると一個の記事、一個の論文の意味を追うのではなくて、その論文がどういう波紋をもたらしたのかというコミュニケーションのダイナミズムそのものに本質がある、そのように変わってきている感じってありますよね。

: あります。けれどもそれを言うとなると、最近流行りの言葉で言えば「エビデンスがない」みたいな話になる(笑)。結局、それが「現象」ということなんですね。

 僕の主観で書くのはいいんでしょうけど、定量的に捉える見方みたいなものも確立してあるわけでもないし、難しい。

「保守革新の対立など無効だと思っています」

佐々木: そもそも東さんは、論壇時評をどういう人が読んでいるだろうという想定の下に書いているんですか。

東: 論壇時評はやっぱり新聞ですから年齢層とかも限定できません。日本語が読める人だったら取り敢えず誰でも読めるように何とかやってみようみたいな感じです。

佐々木: そうなんだ。

東: 別に若い人たちを論壇に振り向かせようという気もあんまりない。どっちかというと今まで論壇時評を読んできた人たちに、新しい現象を紹介するっていうスタンスではあります。かといってネットの話だけしてもしょうがないですし・・・。

佐々木: そうですよね。

東: そもそも僕は、左右というか保守革新の対立みたいなものが、あまり好きではないというか・・・、簡単に言うと、無効だと思っているわけですね。

佐々木: 無効ねえ(笑)。

東: この人は保守だけど、この人は革新だ、なんていうレッテル貼りをすると、すごく論壇時評って書きやすいんですよ。

佐々木: なるほど。

東: その書きやすさは、結局、古いイデオロギー対立で作られていた文法に、新しい現実を強引に押し込めているんだと僕は思っている。

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 例えば今だったら「みんなの党はネオリベ(ネオリベラリズム)寄りだ」とかって言えば簡単なんですよ。

 しかし、今、若者の無党派層は、結構みんなの党を支持していると思いますが、そのことが若者のネオリベ化を意味しているかといったら、そう簡単な話ではない。だからそう簡単なレッテル貼りをしたくないんですよね。それが僕が気をつけてやりたいなと思っていることです。

佐々木: なるほど。

東: 2ヵ月くらい前に「新しい公共」の話をしたとき(2010年5月27日朝日新聞朝刊)も、「市民」という言葉に対する不信感があるのでそれをどうするかが大事、という話をしました。普通、新しい公共の話をするんだったら八木(秀次)さんの論文を取り上げたりはしないでしょう。

 だけど、僕は、ある種のバランサーとして、「市民」という言葉そのものが持っているネガティブなイメージみたいなものも目配せしつつ新しい公共の話をするという、そんな感じでやってます。

マスが消滅していくなかで誰に読ませるのか

佐々木: さっき朝日新聞の論壇時評を誰が読んでいるのかお聞きしたのは、マスが消滅していくなかで、いったい母集団をどこで捉えていくのかということは、すごく重要な問題だと思うんです。

 朝日新聞の論壇時評を読んでいると推定される読者層と、仮に今の世の中に世論形成がされていく何らかのプロセスが存在するとして、そのプロセスを担っている人たちとがどのくらい重なっているのか、どんなイメージなのか、東さんはどんなふうに捉えていらっしゃるんでしょうか。

 単純に、古い世代の終わった人たちに向けて書いているのか。それともネット世代を読んでいる中心層に据えているのか。日本人全員に向けて書くっていうのはあり得ないじゃないですか。

東: 全員が読んでいるっていうことはあり得ないんだけど、全員が読み得る状態にするっていうことはあり得ると思うんです。

 例えば、「市民」いう言葉を肯定的に使った瞬間に、ある人たちは離れるわけですよね。だから「市民」という言葉を中立的に使うとか、そういうことに気をつける。さっき言った保守革新のレッテル貼りがそうです。

佐々木: なるほど。

東: だからこれは結局言語技術の問題なんだなって、(論壇時評を)3回やって思ったんですね。

佐々木: なるほどねえ。

東: ちょっとでも油断すると、ある言葉を無条件に肯定的だったり否定的だったりで使ってしまうわけですよね。右翼はその傾向が強いけど、左翼もかなりその傾向が強い。ネオリベって言っただけで何かに言及した気になるわけですよ。そういうことをなるべくしないことによって、潜在的には誰でも読める状態にしておく。

佐々木: なるほど。言葉の再定義をすべてゼロから始めるくらいの・・・。

東: そこまでっていう話でもないです。

 鍵になる言葉ってやっぱりあるんですよ。例えば朝日と産経だったら、その言葉にかける負荷が正反対になる言葉があったときに、なるべくそういう言葉は中立的に使っていくということだと思います。

政治について語っているようでレッテルを語っているだけ

佐々木: 論壇時評を書いてみて反響はどうでした。

東: どうも僕を起用することは朝日新聞社内ではかなり危ぶまれていたようです。でも結果的には社内でも「やらせてみてよかった」っていうことになったらしく、担当の人たちはすごく喜んでます(笑)。

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佐々木: それはどういう「よかった」なんでしょう。内容が・・・。

東: まあ、一言でいえば「意外に」よかったっていうやつだと思います(笑)。「こういう文章も書けるんだ」みたいな感じなんじゃないですかね(笑)。

佐々木: 朝日新聞の人から見ると、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)みたいなものを書く人、そういうイメージなんでしょうか。

東: そういうイメージもあるでしょうし、やっぱり僕はいわゆる左翼とはかなり違うので。あと、あんまり政治とか経済にしても語らないようにしてきたから。

佐々木: そうか、あんまりナマナマしい話はされないですもんね。

東: なんでしないかっていうと、さっき言ったみたいに、一般的にナマナマしいリアルの話だと思われているものの多くは、単純なレッテル貼りで作られている。政治について語っているって人は本当はレッテルについて語っているんですよね(笑)。

佐々木: 身も蓋もないですね(笑)。

東: レッテルさえ粗野でいいんだったらば、いくらでも語れるわけですよ。そういうことをやっていればなんとなく政治について語ってる気になる。政治的だって言われているブログはほとんどそういう言葉で出来ている。

佐々木: 確かにそうですね。

東: だから僕の論壇時評を物足りないと思っている人たちもいるはずです。それはなんでかっていうと、そういうときに判断留保をしている言葉遣いになっているからです。

佐々木: そういう人から見るとバサッと切ってないだろうっていう・・・。

東: 市民っていう言葉だけで拒否反応もしなければ、市民OKっていう感じでもない、なんかモヤモヤッとしたところで書くように心掛けているんです。僕としてはそういう在り方しか今ないだろうという気がするわけです。
敵か味方かを鮮明にする必要なんてない

佐々木: そうすると、いろんな場面でものすごく反論されませんか。

 例えば、市民という定義を曖昧なまま置いておくことはすごく難しいですよね。仮に市民って本当はいったいなんなんだろうと、あらためて深掘りしたとします。そこで市民という言葉を批判的に言った瞬間に左翼系の人からはものすごく攻撃が来る。逆に好意的に言った瞬間に右翼系の人からものすごく攻撃が来る。

 政治的な圧力の中に晒される危険性があるわけですよね。そのへんはどうですか。例えば、あの南京大虐殺の問題ですよ。

東: 南京事件そのものは僕はあるって何回も言っているんですよ。「ない」というひとの発言の自由は守られるべきだと言ったにすぎないんですけどね・・・(苦笑)。いずれにせよ、あの問題に触れると、果てしなくネット左翼から抗議が来るので、ちょっと止めておきましょう(笑)。

佐々木: ことほどさように、いろんな政治的な・・・。

東: 「政治的」ということを、具体的な現実とどう関係するかっていうことではなく、敵か味方か鮮明にすることだって思っている人は多いですよね。

佐々木: そうですよね。

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東: 鮮明にしなきゃいけない局面もあると思うんです。だけど世の中のたいていのことっていうのは、当事者以外にとっては別に鮮明にしなくてもいい、できないことだったりする。それなのに、まず最初に「おまえはどっちなんだ」っていうことを言うのも如何なものか。

 というのも一昔前だったら、何となく革新系・保守系っていうので政策パッケージがバーッとあった。例えば原発反対するんだったら消費税も反対だし、消費税に反対するんだったら当然沖縄から基地は出ていけみたいな感じです。すべてが繋がっていた。

 今はそういう時代でもない。政策ごとにこっちは革新系、こっちは保守系と連動しているわけでもないので、いちいち「君はどっちなんだ」と言うことにあまり意味はないのかなと思っています。

 むしろ、ニュートラルな言葉を使わないことによって情報の正確な流通が妨げられているという、そっちの方が問題だと思うんですよ。

 僕の場合、僕の読者も革新系なのか保守系なのかもよく分からないですし・・・。実は僕のツイッターのフォロワーって、アイコンに日の丸くっついている人がかなり多いんですよ。

佐々木: そうなんですか、知らなかった(笑)。

「なぜ河口堰に反対なのに、死刑には賛成なのか」

東: 例えば、「日本を愛する」っていう言葉を、ある傾向の人たちはそれ自体が嫌だったりする。「日本を愛する」っていうことが嫌だと思う左翼に対して、ネット右翼は「そんな奴らは亡国の民だ」などとまた攻撃する。

 これは完全に空中戦ですよ。「日本を愛する」っていう言葉の使い方について争っているだけのような気がするんです。だからそういう論争を政治的だと言うのも嫌だなという感じなんです。

佐々木: 本来、政治的という言葉の意味そのものをもう少し考え直さなくてはいけない。

 実は私にもそんな体験があります。昔、新聞記者をやっていたときに、毎日新聞だったんでいわゆる左翼系なんですよ(笑)。市民運動の取材をやたらとやらされた。

 駆け出しの頃は岐阜支局にいて長良川河口堰問題、河口堰反対とかね。これだけなら単なるエコの話なんだけど、集会に行くと、死刑廃止とか原発反対とか全部ワンセットになっている。そこに行くと「なんであなたは河口堰に反対なのに死刑は賛成なんだ」って、すごく怒られたりした(笑)。

東: 分かります(笑)。

佐々木: 田舎は特にそうですが、運動やっている人すごく少ないから、どんな運動に行っても同じ人がいる。これ、金太郎飴現象って言ってたんですけど(笑)。すべて人脈的に繋がらなきゃいけないっていうね。

 運動体と自分の持っているいろんなイシューに対する考え方は、すべて全人格的にイコールでなきゃいけないという圧力が非常に強くて、不思議な世界だなって思ったことがあるんですけど。

東: よく分かりますね。

佐々木: かつての世の中はムラ社会的に、一つの会社の中で一緒に御飯食べて、運動会にも出て、寮に住んで、みたいな感じで、全人格的な付き合いをしていた。運動をするっていうことも、それと同様でした。イデオロギーも感覚もすべて同じで、すべて同じものに反対しなくてはいけないっていう。そんな感じだったと思うんです。

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 それが崩壊してしまった今、逆にいうとそれぞれのイシューごと別々に議論するっていうことが本当は必要なんじゃないかと思うんです。でもそれが今の政治システムとか、あるいはメディアのシステムで可能なのかどうか。

東: 本当は可能なはずですよね。ある種の同調圧力みたいなものが、いまもお互いに働いてくるっていうことなんでしょう。「河口堰反対なのに、死刑反対じゃないの、なんでなんだ」みたいな糾弾が行われる。

佐々木: ええ。

事業仕分けのUst中継に「本当の政治」の萌芽が見えた

東: 事態はもうひとつ先に行っている感じもします。ネット右翼が言うところの「プロ市民」の問題ですけど、プロ市民的感性に対する拒絶感みたいなものも、ここ十年間くらいネットを中心にすごく強くなってると思うんですよ。

佐々木: うん。

東: これは厄介です。もし新しい公共みたいなものを起ち上げるのならば、まず「プロ市民」を何とかしなければいけないというのは当然です。しかし同時に、プロ市民をきっかけにして大衆の中に根付いてしまった市民運動に対する徹底した不信感も何とかしなくてはいけない。

佐々木: そうですね。

東: 結構遠回りなると思うんですよね。鳩山政権は倒れちゃいましたが、今の段階で「新しい公共やります」って言って、「参加して下さい。NPO来て下さい。市民団体来て下さい」って言っても、そこに参加することに対する忌避感というか、嫌だなって思う感覚があまりにも強い。僕はうまく機能しないと思うんですよ。

佐々木: うーん、そうすると市民運動というようなパッケージなのか、見せ掛けなのか分からないけども、それをいったん取り去って、もう一回市民運動的な新しい公共ってあり得るんでしょうか。

東: どうなんでしょうねえ。僕は、みんなでプラカード持ってデモとかって、もうやらない方がいいって思ってるくらいなんです(笑)。

 事業仕分けのいちばん最初のとき、そらのさんがユーストで中継をして、横にツイッターでみんながコメントを書き込んでいたじゃないですか。ああいう形での意見の集約ってのは、僕はとてもいいと思うんです。ああいうのこそが本当の政治の萌芽だと思うんです。

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あずま・ひろき
1971年、東京・三鷹市生まれ。批評家。早稲田大学文学学術院教授。東京工業大学世界文明センター特任教授。東京大学教養学部教養学科(科学史・科学哲学)卒業後、93年、文筆活動を始める。『存在論的、郵便的』(1998年)『動物化するポストモダン』(2001年)など著書多数。「クォンタム・ファミリーズ」で2010年、三島賞受賞。近著に「ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇」、「ised 情報社会の倫理と設計 設計編」、「父として考える」(宮台真司との共著)。ツイッターのアカウントは @hazuma

 

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