映画『Fukushima 50』はなぜこんな「事実の加工」をしたのか?

観客をミスリードする作り

福島第一原子力発電所の事故を描いた映画『Fukushima 50』(若松節朗監督)が3月6日公開される。

これは、一種の「戦争映画」だ。福島第一原発を戦場として描き、吉田所長以下の職員たちを兵士として英雄的に描く。

娯楽映画として、よくできている。

原発のプラント内の再現度が高い。といって、私自身が実際の原発を見ているわけではないので、どこまで再現されているかは確証できないが、リアルに感じた。

凄まじい事故だということ、原発内部の構造がよく分かる。そして、現場の職員たちの危機感もよく伝わってきた。よくぞ、日本は無事だったと思う。

しかし、大きな問題のある映画だ。

混乱の元凶は「総理」だったのか?

娯楽映画なので、作劇上、主人公であるヒーローに対し、悪役が必要なのは分かる。

この映画が扱う戦争では、倒すべき相手は「どこかの国」でもテロ組織でもなく、暴走している原発だ。

そして原発そのものは敵ではない。むしろ、職員たちは原発を愛しており、傷ついて苦しんでいるのをどうにかしてやりたいという感情を抱いている。原発を救おう、という感覚だ。

この映画での悪役は、自分は安全なところにいて、無理なことばかり言う東電本店の役員たちであり、分かりもしないのに口を出してくる首相官邸なのだ。

 

といって、それは「敵」というほど大きな存在ではなく、「障害」程度だ。

その障害である「総理」を、佐野史郎が演じている。

佐野が脚本を読んで考えた演技で監督が認めたのか、監督の指示による演技なのかは分からないが、この映画での「総理」は、かなり浮いている。彼だけが熱くなり、ヒステリックにわめきちらしている。

「総理」は混乱の元凶のように、描かれている。

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