「居場所」探しの物語
こうの史代の漫画『この世界の片隅に』とそのアニメ映画版は、広島県呉市を舞台に、戦時中のある女性の日常生活をリアルに描いた物語である。空襲や原爆、そして敗戦という異常な事態のなかでも、人びとはかけがえのない日常を強く生きていたという作品のメッセージは、多くの人の心を動かしている。たしかにこの作品は、戦時下の民衆生活の特徴を考えるうえで、多くの重要な手がかりを与えてくれる。
この作品は、主人公・北條すずの「居場所」探しの物語であるとよく言われている。では、すずの追い求めた「居場所」とは、具体的にいうとどこだったのだろうか。結論からいうと、戦前の民法に定められた家(イエ)である。戦前の家制度についての知識を頭に入れて読むと、物語は結末に至るまでよりわかりやすく、興味深いものになるのだ。
すずは1925(大正14)年、広島県広島市江波の海苔養殖業の家に生まれた。1944(昭和19)年、18歳で同じ広島県の呉市に住む北條周作と結婚する。周作の仕事は、海軍軍法会議の録司である。今日で言えば、書記官に相当する職である。同居している周作の父円太郎は、海軍の広工廠(ひろこうしょう)で飛行機のエンジンを造る仕事をしている。一家の暮らしは、海軍と戦争により支えられている。
すずの居場所は、北條家の主婦として家事を担い、家のあととりとなる子どもを産むことによって保障される。彼女はしだいに深刻となる物不足のなかでも、明るく生きようとするが、子どもができないのが悩みの種である。
なぜすずは、子どもを産むことを使命として課せられているのだろうか。それは、彼女の生きた戦前の日本の社会が、家制度によって成り立っていたからである。すずの使命は北條家のあととりを産み、彼ないしは彼女に家と先祖の供養を引き継がせることにある。子孫に供養してもらわねば、あの世へいっても魂の安らぎは得られないと、多くの人が考えていた時代であった。
家こそが国の根幹
すずの祝言は、呉の北條家で行われた。神前式ではなく仏前式である。仏壇が置いてある居間で、僧侶が経を唱える。これは、仏壇の中にいる先祖たちに新たに家の一員となったすずを披露するとともに、すずに家の嫁としての覚悟を持たせるセレモニーともいえる。
日本の家制度は、明治時代のはじめから、国の根幹を支える制度として整備が進められてきた。これは、人びとをすべてそれぞれの家に組み込み、家長が監視・監督することで、国家の秩序が安定するという考え方にもとづく。日本という国家自体が天皇を父、皇后を母、国民を子とする、一つの巨大な家とみなされていた。すずもその一人である家の嫁は、日々の家事をこなして家を守り、あととりを産むことによって、その地位を国家的に認められていた。
だから、すずが是が非でも守るべき「居場所」は、北條の家なのである。実家はすでに彼女の「居場所」ではない。仮に戻ったとしても、手に職があるわけでもない彼女を食べさせる余裕はないからだ。すずの頼りは、夫周作の愛情のみである。彼女の過ごす「日常」は、じつはそのような不安定なもののうえに成り立っている。
昔の日本でかくも重要とされていた家制度において、仏壇と先祖の供養はなぜ大事なのか。ひとつは、人びとが自分の死後の魂の安らぎのために必要と思っていたからである。もう一つの理由は、「我国は祖先教の国なり」という明治時代の法学者・穂積八束の有名な言葉が示すように、人びとがその家の先祖、そして天皇の祖先神を崇拝することによって、家、ひいては国への帰属意識を確固たるものにすると考えられていたからである。
すずと義姉の「居場所」
そんな立場のすずにとって、自らの「居場所」を奪いかねない存在となるのが、周作の姉の径子である。径子は呉の市街地で時計店を営む黒村家に嫁いでいたが、夫を早くに病気で亡くしてしまう。夫の両親と折り合いが悪くなった径子は、ある日、娘の晴美を連れて実家の北條家にもどってくる。息子の久夫は黒村家にとられてしまった。先方としては、あととり息子は手放せない。家業の時計店は畳まざるを得ないとしても、家は残る以上、先祖供養は引き継がせねばならないからである。
径子は、いささか、というよりかなりボーっとしたところのあるすずに代わって、家の家事をてきぱきとこなしていく。径子の目的は、すずを家から追い出し、北條の家に自分と娘の居場所を確保することである。小さな家だから家事の担い手は一人でよく、無駄飯ぐらいを置く余裕は北條家にはない。径子の頭の中には、晴美が大きくなったら養子を迎えて北條の家を継がせるプランもあったかもしれない。そうすれば自分と晴美の「居場所」は盤石である。おそらくそのため、径子はすずにいろいろとつらく当たる。
ところが径子はある日、晴美を連れて黒村家に帰ってしまう。理由は漫画版でも映画でもとくに語られない。期せずして一家の主婦の座を奪還したかたちのすずは、いそいそと家事に取り組み、手間暇をかけて楠公飯と称する飯を炊き、食料節約に励む。
居所指定権と追い出された女性たち
ここで考えてみたいのは、径子が婚家へ帰った理由である。径子にとって、現在の正式な「居場所」は婚ぎ先の黒村家であり、北條家ではない。ところが当時の法制度では、径子があまり長く黒村家を留守にしていると、家の一員としての地位を剥奪され、追い出される可能性があった。そのため、不本意ながら帰らざるをえなかったと考えられる。
当時の日本の民法では、家を監督する戸主(この場合、黒村の義父)には、居所指定権なるものが与えられていた。これは、家族の居場所を戸主が指定し、従わない場合は除籍、すなわち家の戸籍から追い出せるという、きわめて強い権限である。法律がこのような権限を戸主に与えていたのは、すでに述べたように、戸主に家の構成員を監視・監督させて国家の秩序を保つためであった。径子は、戦死者の妻ではないが、あまり実家に長居していると、それを口実に嫁ぎ先から離籍されてしまう可能性があった。
実際、戦前の日本では、多くの女性がこの居所指定権を行使され、婚ぎ先の戸籍から追い出されていた。なかでも多かったのが、戦争で戦死した兵士の妻であった。国家のため戦死した人の遺族には国から一時金や生活費(扶助料)が与えられたが、その取り分をめぐって戦死者の親と妻(当時の表現では未亡人)が争いをはじめる事例が多発していた。いたたまれなくなった妻が実家などへ出て行くと、戸主である夫の父が居所指定権を持ち出し、指定に背いたという理由で妻を離籍し、お金を独り占めしてしまう事例が各地でみられたのである。
兵士と妻の感情に配慮した理由
現実の呉市にも、婚ぎ先から追い出されそうになった戦死者の妻がいた。日中戦争下の1938(昭和13)年、「名誉の戦死を遂げた勇士の妻が一人の幼児をつれて実家に帰っていたため戸主の居所指定権に従わぬという理由で離籍された」事例がある。しかし彼女は屈することなく、戸主を裁判に訴えた。広島地方裁判所呉支部は同年9月、離籍無効の判決を出している。つまり、彼女は裁判に勝ち、家の嫁の座(とそれに付属する、国からのお金)を守ったのである。
では、戸主に強い権限を持たせていた戦前の日本において、なぜ裁判所は、立場の弱かったはずの妻に有利な判決を下したのだろうか。
それは、このような無残な事態の多発を放置しておくと、前線で戦っている兵士の士気が下がると判断したからである。兵士たちにとっては、仮に自分が戦死した場合、一番心配なのは立場の弱い妻であった。
実際、政府は1941(昭和16)年に民法を改正し、戸主による除籍には裁判所の許可を受けねばならないと定めている。戦争遂行のために、兵士とその妻の感情に配慮した措置であったのは明白である。日中・太平洋戦争はさまざまな変化を日本社会にもたらしたが、法律上の妻の立場の強化は、その一つである。
居場所なしには生きていけない
径子が北條家に出戻ったのは1944年3月のことであるから、法律上はすでに、嫁ぎ先から一方的に除籍されることはなかった。だが、今日のわれわれがそうであるように、けっして皆が法律に詳しいわけでもないし、裁判に訴えるのは心理的・金銭的ハードルが高い。径子は民法の改正を知らなかったか、知っていても裁判沙汰になるのが怖くて、仕方なく婚家へ戻ったとみられる。径子もすずと同じく、どこかの家以外に「居場所」を持たない、きわめて不安定な立場の人であった。人は居場所なしには生きていけない。
ちなみに現在の民法にも、未成年者は親権者の居所指定に従わねばならないとする条文がある(第821条)が、それはあくまでも子の監護・教育のためである。子が従わなかったからといって除籍されるようなことはない。
だが、径子は約3か月後の6月、正式に黒村家と離縁して、再び北條家に戻ってくる。戸籍も北條家に復籍したはずである。径子は驚く北條家の人々に向かって「心配ご無用 仕事見つけて 働きに出るけえ」と宣言し、自分と娘の食い扶持を自分で稼ぐ。かくしてすずと径子はとりあえず対立の矛を収め、北條家で共存していく。しかし、家のあととり問題は依然として未解決である。このままでは、すずは「居場所」を確定できない。
この問題は、皮肉にも昭和20年5月の呉空襲ですずが右手を、径子の娘晴美が命を失ったこと、そして8月6日に広島へ原爆が投下されたことで、解決へと向かう。
供養の担い手としての養女
物語の終幕で、すずと周作は敗戦後の廃墟と化した広島市内から、原爆孤児の幼女を連れて呉に帰ってくる。女の子の年齢は、おそらく小学1、2年生だろう。彼女は『この世界の片隅に』ノベライズ版でヨーコという名前を与えられているので、以下ヨーコと呼ぶ。
ヨーコについては、漫画版と映画版に共通の、ある印象的な場面がある。それは、北條家の全員が品定めでもするかのように、ヨーコをじーっと無言で凝視する場面である。たぶん全員が「この子を養女にとって、家のあととりにできないか?」と考えていたはずだ。そのとき、すずと周作がそろって照れた表情を浮かべているのは、ヨーコのことをすでに赤の他人ではなく、二人の愛の結晶、我が子とみなしているからである。
映画版のエンディングロールに、すずと径子に共同で育てられて大きくなったヨーコの姿が描かれている。おそらくヨーコはすず・周作夫妻の養女になったのであろう。ここにすずは北條の家のあととりの(義)母という地位、すなわち「居場所」を確定できた。
晴美を失った径子も、手の不自由なすずに代わって一家の家事を担うことで、同じく北條家に「居場所」を持つことができた。円太郎とその妻サンも、死後の供養の担い手が確保され、満足したであろう。こののち、憲法と民法の改正で家制度は過去の遺物として廃止されるが、戦前から生きている人びとの意識は、そうにわかに変わるものではない。
私がこのように考えたのは、この物語の作者・こうの史代自身が、母の実家の跡取りとして養女に出された経験があるという話を読んだからでもある。25歳で正式に養子縁組したとき、養母はすでに死期を迎えており、看護師にこうのを「娘です」と紹介した。こうのはそのときの養母の顔を「一生忘れない」と書いている。これは私の想像だが、死後の供養の担い手を得て、心から安堵した顔をしていたのではなかろうか。年齢こそ違うけれど、ヨーコとこうのの姿は重なって見える。
かくして『この世界の片隅に』は、大団円を迎える。この物語は、最初から最後まで一貫して家制度の話であったといえる。
(次回は8月上旬公開予定です)
【参考文献】
・齋藤秀夫『戦時生活の法律と判例』河出書房、1944年
・利谷信義「国家総動員体制における家族政策と家族法」福島正夫編『近代日本の家族政策と法 家族 政策と法6』東京大学出版会、1984年
・小山静子『家族の生成と女性の国民化』勁草書房、1999年
・西川祐子『近代国家と家族モデル』吉川弘文館、2000年
・こうの史代インタビュー「わたしと憲法 シリーズ⑯」、『週刊金曜日』572、2005年
・こうの史代「私の白日」『平凡倶楽部』平凡社、2010年