「プロパガンダ」を右派が使うことへの違和感
「グロテスクなプロパガンダ映画である」
『主戦場』(ミキ・テザキ監督)というドキュメンタリー映画が世間を賑わせていることをご存知の方も多いだろう。同作は、現在半ばタブー扱いされている「慰安婦」問題をテーマとして取り上げたうえで、保守派の論調を崩してくという手法で「慰安婦」問題の論争が描かれている。
5月30日、同作に出演した保守派の面々――「なでしこアクション」代表で元在特会の山本優美子、「テキサス親父日本事務局」事務局長の藤木俊一、「新しい歴史教科書をつくる会」副会長の藤岡信勝が抗議会見を行った。彼らは「商業映画だと事前に知らされていなかった」という主旨の抗議をしたのだが、それはともかく、会見を見ていて私が気になったのは、冒頭に掲げたセリフである。
また出た。「プロパガンダ」。
右派は「プロパガンダ」という言葉をよく使う。それゆえ、この会見の様子は、右派のメディア文化を研究してきた私には、デジャヴ全開の光景である。辻田真佐憲も「現代ビジネス」で、はすみとしこが「ホワイトプロパガンダ漫画家」を名乗っていることは「僭称」であり、「単なる自己主張」であると指摘している1。
重要なのは、辻田の記事からも分かる通り、右派の言う「プロパガンダ」は言葉の誤用であるということだ。なぜ誤用と言えるのか。
歴史的に見て、独立した個人制作の対象がプロパガンダとして扱われることはほぼない。なぜなら、「プロパガンダ」という言葉は、そもそも体制=為政者側の実践を示し、とりわけそれを批判する時に用いる言葉と言ってよいからだ。
その意味では、いち映画監督が作った『主戦場』は「プロパガンダ」とは言えない。ところが彼ら(=右派)の視点からは、この映画は「敵」であるがゆえに、真実性の低い事実にもとづいた「ブラックプロパガンダ」と認定されるのだろう。
実際、私も授業で「プロパガンダ」の話をするわけだが、学生のレポートにも似たような誤解は少なくない。もっとも強烈だったのは「大学の授業はプロパガンダである」という主張である。いやいや、戦時中でもないし、私大なんだし、そんなわけないだろう。
この原稿では、右派言説におけるこうした言葉の「誤用」「流用」を紹介する。学生のレポートはともかくとしても、歴史的に獲得された言葉の意味における語用論的な齟齬が、右派言説の中では頻発する。なぜ彼らは他者を批判する際にこのような言葉の「誤用」を頻発するのだろうか。そこに何らかのメカニズムがあるのだろうか。